後醍醐天皇の死因とは?病気?暗殺?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】

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後醍醐天皇と神社の鳥居
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結論からいいますと
後醍醐天皇の死因は病死です。
※具体的な病名は不明

  • 後醍醐天皇の誕生日:1288年11月26日
  • 後醍醐天皇の命日:1339年9月19日

※後醍醐天皇の最期の年齢は50歳

 

後醍醐天皇の死因は病気が定説ですが
病名など詳細は明らかになっていません。

そのため「政治的な暗殺が本当の死因」、
そういった可能性もゼロではありません。

当時の時代背景から死因を考察すると
暗殺リスクが高かったことが推測できます。

 

後醍醐天皇はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】

後醍醐天皇のすべて

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
鎌倉時代から室町時代初期までを生きた
日本の第96代天皇です。

  • 後醍醐天皇の誕生日:1288年11月26日
  • 後醍醐天皇の命日:1339年9月19日

※後醍醐天皇の最期の年齢は50歳

 

 

鎌倉幕府の滅亡に大きく関わり
建武の新政を実行した人物です。

 

後醍醐天皇とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
後醍醐天皇の生涯について
わかりやすく簡単な言葉で解説していきます。

 

後醍醐天皇の誕生日

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は
1288年11月26日(天応元年11月2日)
後宇多天皇と藤原忠子の
子ども(第2皇子)として誕生します。

 

31歳の若さで天皇になる

1318年に花園天皇の譲位を受けて
後醍醐天皇は31歳という若さで即位。

そして1321年以降から、
後醍醐天皇は親政を始めます。
※親政(しんせい)とは、
天皇が自ら政治を行うことです。

実は、もともと後醍醐天皇は
邦良親王が成人するまでの
中継ぎとしての天皇でした。

邦良親王とは
後醍醐天皇の兄である
後二条天皇の息子です。

後醍醐天皇は、自分の子孫に
天皇の位を譲ることができないことを
ずっと不満に感じていたそうです。

 

そもそもなぜ、
後醍醐天皇は中継ぎなのか?

それは、後宇多天皇の遺言に
そういった内容があったからです。

そして、後醍醐天皇は
後宇多天皇の遺言を承認していた
鎌倉幕府に反感を持つようになり
倒幕の計画をするようになります。

後醍醐天皇と正中の変

1324年、「正中の変」が起こります。

正中の変とは、後醍醐天皇による
鎌倉幕府の打倒計画が発覚したことで
後醍醐天皇と共に計画していた
側近(日野資朝)らが処刑される事件です。

後醍醐天皇と元弘の乱

1331年には、
元弘の乱」が起こります。

またしても
後醍醐天皇の討幕計画が
鎌倉幕府にバレてしまいます。

三種の神器」を持ち出し
笠置山に入って挙兵しますが、
後醍醐天皇は再び敗れてしまいます。

鎌倉幕府滅亡の立役者「後醍醐天皇」

討幕に2度失敗した後醍醐天皇は
鎌倉幕府に捕らえられて
隠岐(現・島根県)に流されます。

この時期に、護良親王や楠木正成らが
各地で反幕勢力を強めていきます。

 

1333年に後醍醐天皇は隠岐を脱出し、
その時には鎌倉幕府に不満を持っていた
足利尊氏や新田義貞らも味方します。


これにより、鎌倉幕府は滅亡する道を歩むこととなりました。

 

後醍醐天皇による建武の新政

建武政権――後醍醐天皇の時代 (講談社学術文庫)

後醍醐天皇は帰京後、
念願であった建武の新政を始めます。

 

これは天皇中心の政治で
武士は不遇な扱いを受けるものでした。

建武の新政は、武士だけはなく、
公家達からも批判され、
後醍醐天皇は権威を失っていきます。

 

後醍醐天皇と足利尊氏

1335年、足利尊氏が延元の乱を起こします。

この戦いは、今まで味方だった足利尊氏
後醍醐天皇を倒すために開始した戦いです。

 

後醍醐天皇は新田義貞や楠木正成らに
助けを求め、このピンチを切り抜けます。

 

しかし再び足利尊氏に京都で攻め込まれ
後醍醐天皇軍はついに敗れ、比叡山に逃れます。

そして後醍醐天皇は降伏して
足利尊氏に三種の神器を渡すことに。

 

その後、後醍醐天皇は
幽閉されていた花山院を脱出して、
吉野(現・奈良県)に逃れます。

足利尊氏に渡した三種の神器は偽物?

後醍醐天皇は挫けません。

なんと、逃げた吉野で
南朝」と呼ばれる朝廷を開きます。
※吉野の場所:現在の奈良県南部

 

「足利尊氏に渡した三種の神器は偽物」

こういった内容の主張をして
朝廷として認めさせようとしたのです。

一方、足利尊氏は京都で「北朝」を開きます。

つまり、日本が2つに分裂して
南側と北側それぞれに朝廷がある状態です。

こういった時期を歴史上では
南北朝時代と表現することがあり
日本の歴史がややこしくなりました。

※大きくまとめると
南北朝時代も室町時代に含まれます。

 

後醍醐天皇の最期

1339年9月19日
後醍醐天皇は病で亡くなります。享年50歳。

吉野に南朝を開いてから、
わずか3年ほどのことでした。

 

後醍醐天皇の死因は病死です。
※具体的な病名は不明

  • 後醍醐天皇の誕生日:1288年11月26日
  • 後醍醐天皇の命日:1339年9月19日

※後醍醐天皇の最期の年齢は50歳

 

後醍醐天皇の死因は病気が定説ですが
病名など詳細は明らかになっていません。

そのため「政治的な暗殺が本当の死因」、
そういった可能性もゼロではありません。

当時の時代背景から死因を考察すると
暗殺リスクが高かったことが推測できます。

 

 

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