建武の新政とは何か?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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建武の新政後醍醐天皇ときららの殿千種忠顕卿

 

建武の新政(けんむのしんせい)とは
鎌倉幕府滅亡後に、後醍醐天皇によって行われた政策です。

開始時期:1333年
終了時期:1336年2月25日

 

 

建武の中興(けんむのちゅうこう)」とも
呼ばれますが、この政策によって
また新たに日本の歴史が動き始めます。

 

建武の新政とは何か
どのような政策だったのか?などなど
建武の新政について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

建武の新政とは?

マンガ 日本の歴史〈18〉建武新政から室町幕府の成立へ (中公文庫)

建武の新政とは、
1333年(元弘3年/正慶2年)
後醍醐天皇が打ち出した新政策です。

建武の新政という名前の由来は、
翌年に定められた「建武」の年号です。

 

後醍醐天皇は、
武家による政治を辞めて
公家中心の政治(親政)を目的とします。

かつて天皇政治の理想ともいわれた
醍醐天皇と村上天皇らによる
古代政治を手本にしたのです。

 

しかし、その内容は時代錯誤
武士の不満を招き公家からも支援されず、
足利尊氏の反発により、わずか3年で崩壊しました。

 

建武の新政の内容

週刊朝日百科11 日本の歴史 中世Ⅱ-①後醍醐と尊氏 建武の新政

肝心な建武の新政の内容を紹介します。

  • 大内裏造営と
    乾坤(けんこん)通宝発行の計画
  • 中央組織の整備
  • 地方組織の整備

これらについて以下で簡単に解説します。

 

大内裏造営と乾坤通宝発行の計画【建武の新政】

まず、後醍醐天皇は権威を示すために
大内裏(皇居)の造営を計画します。

そのために必要な費用を集めるべく
二十分の一税など新税
新しい紙幣や貨幣の発行を計画します。

 

また「乾坤(けんこん)通宝」発行詔書
発行されますが、その通宝が
実在したかは確認されていません。

 

中央組織の整備【建武の新政】

建武の新政では、
中央機関の整備が行われます。

  • 記録所
  • 恩賞方
  • 雑訴決断所
  • 武者所

『記録所』は、国の重要事項を
決める最高決定機関です。

『恩賞方』は、武士への
恩賞(褒美)を取り扱う機関で、
『武者所』は京都の警備をする機関です。

 

そして『雑訴決断所』では
所領をめぐる事務や裁判を担います。

鎌倉幕府の「引付」での
訴訟を受け継いでいます。

 

地方組織の整備【建武の新政】

建武の新政では、
地方組織の整備も行われます。

  • 国司と守護
  • 鎌倉将軍府
  • 陸奥将軍府

建武の新政では
国司の方が権限を上として、
全国に国司と守護を設置します。

鎌倉幕府では
『国司』の実態が失われていましたが、
後醍醐天皇は国司を地方支配組織の要としたのです。

 

他にも鎌倉将軍府として、
後醍醐天皇の息子である成良親王
足利尊氏の弟の足利直義を派遣します。

陸奥将軍府としては、
後醍醐天皇の息子である義良親王
北畠親房の長男の北畠顕家を派遣します。

 

建武の新政崩壊の理由

建武の新政が崩壊した理由は
武士から大きな不満が出たからです。

 

そもそも、足利尊氏ら武家が後醍醐天皇に
協力して鎌倉幕府を倒したのには、
鎌倉幕府に不満があったからです。

後醍醐天皇を支持していたわけではありません。

 

そして、この建武の新政は
公家を重用し、恩賞も武士よりも
公家の方が多いなどの差が出たのです。

中央機関の「恩賞方」が
判断が公正ではなかったことも、
多くの武士から反感を買います。

 

この政策では、武士が
自分たちの土地が危ない
という危機感を持ちます。

 

そしてこの政策に失望した足利尊氏が
後醍醐天皇から離反し、対立していくのです。

 

最後に

マンガ 日本の歴史〈18〉建武新政から室町幕府の成立へ (中公文庫)

 

この記事では
建武の新政について、なるべく
わかりやすく簡単な言葉で解説しました。

 

この情報が少しでも役に立てば幸いです。

 

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