結論からいいますと
原敬の死因は刃物による暗殺です。
- 原敬の誕生日:1856年3月15日
- 原敬の命日:1921年11月4日
※原敬の最期(最後)の年齢は65歳
1921年(大正10年)の11月4日に
東京駅乗車口で原敬は刺殺されました。
※原敬が暗殺された場所:現在の東京駅丸の内南口
原敬を暗殺した犯人は
山手線大塚駅の職員です。
※原敬暗殺の犯人の名前:中岡艮一
原敬を暗殺した中岡艮一の
犯行当時の年齢は19歳でした。
右翼の思想をもつ中岡艮一は
政治的な恨みが犯行動機となり
内閣総理大臣の原敬を暗殺しました。
原敬はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
原敬(はらたかし)は
幕末期(江戸時代後期)に誕生し
大正時代まで生きた外交官、政治家です。
- 原敬の誕生日:1856年3月15日
- 原敬の命日:1921年11月4日
※原敬の最期(最後)の年齢は65歳
原敬は政党政治家として最初の
政党内閣を組織(組閣)した人物です。
原敬の誕生日
原敬(はら たかし)は
1856年3月15日(安政3年2月9日)に
盛岡藩(現在の岩手県盛岡市本宮)で
盛岡藩士の家に生まれます。
原家は盛岡藩の家老を務める程の家柄でしたが、原敬が9歳の頃に父親が亡くなってからは苦しい生活だったそうです。
原敬と司法省法学校
原敬は15歳のときに上京して
学費のかからないカトリック神学校に
入学してフランス語などを学びます。
この頃、原敬は実家の原家から
分家して、平民となっています。
その後1876(明治9)年、
司法省法学校に入学しますが途中で退学。
原敬と外務省
学校を退学後に原敬は
『郵便報知新聞』や『大東日報』
の記者を務めて活躍します。
大東日報をきっかけに
政府に接する機会ができた原敬は、
外務省で働くこととなります。
これが官界へ転進の契機となりました。
原敬と立憲政友会
それから原敬は
外務次官などを歴任します。
1897(明治30)年9月、40歳の頃に
原敬は官界から引退します。
そして伊藤博文を中心に
結成された立憲政友会に参加します。
原敬と立憲政友会総裁
1902(明治35)年、原敬は
衆議院議員に初当選します。
それ以降連続当選8回をしています。
その後は政友会の実力者として
西園寺公望総裁を補佐し、
桂園内閣時代の立役者となりました。
そして1914(大正3)年、
第3代立憲政友会総裁にまで昇りつめます。
原敬と平民宰相
1918(大正7)年、シベリア出兵などが原因で米騒動が起こり、寺内正毅内閣が総辞職。
同年に寺内正毅内閣の後をつぎ
原敬が総理大臣となりました。
爵位を持っていたなかった原敬は
「平民宰相」と呼ばれました。
原敬内閣は、陸軍大臣、海軍大臣、
外務大臣を除いて立憲政友会で構成された
「日本最初の本格的な政党内閣」でした。
また、公家でも薩摩藩出身でもなく、
多くの国民が原敬に期待を寄せたのです。
原敬の最期【原敬暗殺事件】
しかし、平民宰相としての期待とは裏腹に、普通選挙法には反対をします。
さらに当時高まっていた
社会運動を取り締まるなどして
国民から反感を買うことになります。
そして1921(大正10)年11月4日、
原敬は一人の青年によって東京駅で暗殺されました。
原敬の死因は刃物による暗殺です。
- 原敬の誕生日:1856年3月15日
- 原敬の命日:1921年11月4日
※原敬の最期(最後)の年齢は65歳
1921年(大正10年)の11月4日に
東京駅乗車口で原敬は刺殺されました。
※原敬が暗殺された場所:現在の東京駅丸の内南口
原敬を暗殺した犯人は
山手線大塚駅の職員です。
※原敬暗殺の犯人の名前:中岡艮一原敬を暗殺した中岡艮一の
犯行当時の年齢は19歳でした。右翼の思想をもつ中岡艮一は
政治的な恨みが犯行動機となり
内閣総理大臣の原敬を暗殺しました。