平安京(へいあんきょう)とは
平安時代の日本の都城です。
「たいらのみこと」とも読みますが、
「へいあんきょう」が一般的です。
平安京とは何か?
どんな都だったのか?などなど
平安京について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
平安京とは?
平安京とは
794年11月22日(延暦13年10月22日)に
桓武天皇が長岡京から移した都です。
1180年の平清盛の福原遷都を除き、
1869(明治2)年の東京遷都まで
1075年も続いた都です。
平安京は、現在の京都市に位置します。
応仁の乱で大部分は焼けてしまいますが、
豊臣秀吉の新都市建設によって、今日の京都へと発展したのです。
平安京はどんな都?
平安京は唐(中国)の長安を
まねてつくられています。
唐の長安をまねているのは
平城京と同じですね。
規模は南北38町(約5.32㎞)、
東西32町(約4.57㎞)。
北部中央に宮城(大内裏)を設けて
中央の朱雀大路により都城は
左京(東京)と右京(西京)に分けられます。
両京とも、縦横に走る道路によって
碁盤目形に区画され、北は一条から
南は九条に及ぶ9条に、東西はそれぞれ
一坊から四坊に及ぶ4坊に分けられます。
長岡京から平安京へ遷都した理由
長岡京は、現在の
京都府向日市周辺に位置していた都です。
なぜ、わずか10年という期間で
桓武天皇は長岡京から平安京へ
遷都したのでしょう?
寺院の影響力が増大【平安京へ遷都】
遷都した大きな理由の一つが、
奈良時代後半から寺院が力を持ち始めたことです。
当時、光仁天皇の後を継いだ桓武天皇は
朝廷権力を拡大するうえで、
仏教寺院の影響力を心配したのです。
そのため、仏教の強い力が及ぶ平城京を
遷都して、新たな地で朝廷政治を
しやすくしようと計画したと考えられています。
土地の問題【平安京へ遷都】
これまでの平城京では
物資を運搬するための水路がなく、
陸路のみだったので、効率的な
流通ルートがありませんでした。
それだけでなく、下水の問題もあり
平城京付近は不衛生な環境だったそうです。
その点、平安京にある鴨河と桂川は
淀川を経て瀬戸内海へと続きます。
平安京は、陸上交通だけでなく
水上交通でも抜群の利便性を誇ったのです。
長岡京が呪われていた?【平安京へ遷都】
もう一つ、平安京へ遷都した理由が
桓武天皇が祟り(呪い)を恐れたからだそう。
785年に、長岡京建設の責任者であった
藤原種継が暗殺される事件が起こりました。
桓武天皇はこの暗殺事件に、天皇の
弟である早良親王が関わっていたとし、
淡路に流してしまいます。
これを不服とした早良親王でしたが、絶命。
早良親王の死後、桓武天皇の
近親者に次々と不幸が襲います。
桓武天皇の皇后や母親が病死、
皇太子の安殿親王も病気になります。
さらに、世間でも飢饉や疫病が大流行。
これらの災害は、
早良親王の祟りによるものだと信じられ
桓武天皇は急いで平安京へ遷都することを決めたそうです。
最後に
平安京とは何か?
どんな都だったのか?などなど
平安京について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。