豊臣秀吉ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】
豊臣秀吉(とよとみひでよし)は
戦国時代(室町時代末期)から
安土桃山時代を生きた武将・大名です。
誕生時期:1537年3月17日
死亡時期:1598年9月18日
天下統一をした天下人として有名で
日本では現代まで名が知れ渡っています。
この記事では
豊臣秀吉とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
豊臣秀吉について
なるべく簡単な言葉で
わかりやすく紹介していきます。
目次
豊臣秀吉とは?生涯についてざっくりわかりやすく解説
- 豊臣秀吉の誕生日
- 豊臣秀吉と織田信長の関係
- 豊臣秀吉、「寧々(ねね)」と結婚(恋愛結婚)
- 豊臣秀吉、長浜城の城主に
- 豊臣秀吉と本能寺の変
- 山崎の戦いで明智光秀を討つ
- 豊臣秀吉と柴田勝家の対立
- 豊臣秀吉、大阪城を建てる
- 豊臣秀吉の天下統一
- 豊臣秀吉の晩年(最期)
豊臣秀吉の誕生日
豊臣秀吉は1537年3月17日に
尾張(おわり)中村で誕生したといわれています。
※1536年という説もあります。
豊臣秀吉は、足軽か農民であった
木下弥右衛門の子として生まれました。
当時の名前は木下藤吉郎でした。
豊臣秀吉が百姓出身の武将
であったことは有名な話ですね。
豊臣秀吉と織田信長の関係
15歳頃、家を出た豊臣秀吉は
今川義元の陪臣の松下長則に仕えます。
その後、豊臣秀吉は、
松下長則に仕えるを辞めて
1554年、織田信長に小者として仕えます。
■小者:身分が低い使用人のこと。
普請奉行、台所奉行などを
率先して引き受け、大きな成果を挙げ
次第に織田信長に気に入られたようです。
豊臣秀吉が織田信長に対してとった行動で
織田信長の草履取りをした際に
冷えた草履を懐に入れて
温めておいたという逸話は有名です。
草履の逸話の他にも、
台所を取り仕切って薪の量を減らしたり、
清洲城の石垣修理では、
部下同士を競わせて、修理期間を
短縮したという逸話もあります。
豊臣秀吉、「寧々(ねね)」と結婚(恋愛結婚)
1561年豊臣秀吉は、浅野長勝の養女で
杉原定利の娘である「寧々(ねね)」と結婚します。
当時にしては珍しい
恋愛結婚だったといわれています。
寧々(ねね)に一目ぼれした豊臣秀吉が、
プロポーズをして結ばれたそうです。
寧々(ねね)は豊臣秀吉の妻(正室)として
生涯、豊臣秀吉を支え続けたとされています。
ちなみに、豊臣秀吉の妻は
寧々(ねね)だけなのかというと
じつはそうではありません。
織田信長の妹のお市の娘「茶々」も
豊臣秀吉の妻(側室)となり、
跡継ぎである豊臣秀頼を生んでいます。
豊臣秀吉、長浜城の城主に
豊臣秀吉は織田信長から
高い地位を与えられます。
さらに1573年、
近江(おうみ)の地を与えられ
豊臣秀吉は長浜城の城主となりました。
この頃、羽柴秀吉に名を改めています。
豊臣秀吉と本能寺の変
1582年、主君の織田信長が
京都の本能寺の変において、
明智光秀の謀反により自害します。
このとき、豊臣秀吉は事件を知ると
すぐさま高松城の城主である清水宗治の
切腹を条件に毛利輝元と講和します。
そして備中高松から京都まで
約200kmを移動します。
これは中国大返しと呼ばれ、
歴史に残る大移動でした。
山崎の戦いで明智光秀を討つ
短期間で大軍の動員に成功した豊臣秀吉は
明智光秀と京都の山崎で戦い、勝利を収めます。
これは山崎の戦いと呼ばれています。
豊臣秀吉と柴田勝家の対立
その後、同じく織田信長に仕えていた
柴田勝家と対立するようになります。
そして1583年、
賤ケ岳の戦いで両者は戦います。
始めは勝家側が優勢でしたが、
「大返し」による機動戦や
前田利家の戦線離脱などで秀吉軍が勝利します。
豊臣秀吉は、織田信長の後継者としての地位を獲得します。
豊臣秀吉、大阪城を建てる
1583年から豊臣秀吉は
大阪城を築き始め、2年後に完成させます。
豊臣秀吉の天下統一
1585年、豊臣秀吉は関白に任命され、
翌年には太政大臣に就任します。
この頃に名前を
豊臣秀吉に改めています。
四国討伐や九州征伐を行い、
1590年には小田原北条氏を滅ぼし
天下統一を完成させました。
豊臣秀吉の政策として有名なのは
太閤検地の施行と刀狩りです。
これらは画期的な新政策で
近世封建社会の基礎を確立しました。
豊臣秀吉の晩年(最期)
豊臣秀吉は文禄・慶長の役で
朝鮮に軍を送りましたが、失敗します。
そして1598年、
豊臣秀吉は病気(腺ペスト)が重くなり
伏見城で亡くなったとされています。享年61歳。
ただし、豊臣秀吉の死因について
病死ではない説も浮上しています。
興味のある方は
ぜひこちらの記事もご一読ください。
↓
豊臣秀吉の性格はどんな性格だったのか。【性格が悪かった?良かった?】
鳴かぬなら、鳴かせてみせよう ホトトギス
これは豊臣秀吉に関する川柳です。
この川柳の中に、
豊臣秀吉の性格を理解するヒントがあります。
この川柳は、
「ホトトギス」が鳴かないときに
どんな対応を取るのか?
つまり思い通りの結果が出せないときに、
どのような行動をするかを表現しています。
豊臣秀吉の場合だと、
作戦を練って自分の力で
何が何でも結果を出そうとする性格が
この川柳で表現されています。
豊臣秀吉の性格については
以下の記事でさらに詳しく分析したので
興味のある方はぜひ。
豊臣秀吉の家紋について。【日本政府は現在もこの家紋を利用中】
豊臣秀吉の家紋は
「桐紋(きりもん)」と呼ばれる家紋です。
実は現在も日本政府も
この家紋を使用しています。
例えば、500円玉にも、
この桐紋(きりもん)が使用されています。
豊臣秀吉の家紋については
以下の記事でより詳しく解説していますので
興味のある方は是非ご一読ください。
最後に
豊臣秀吉とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
豊臣秀吉についてわかりやすく、
なるべく簡単な言葉で紹介していきました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。