細川勝元(ほそかわ かつもと)は
室町時代に活躍した武将です。
誕生時期:1430年
死亡時期:1473年6月6日
細川勝元とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
細川勝元について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
細川勝元ってどんな人?
細川勝元の誕生日
細川勝元は、1430年(永享2年)に
守護大名の細川持之(ほそかわもちゆき)と
京極高光の娘との間に長男として生まれます。
※細川勝元の具体的な誕生日は不明です。
細川勝元の幼名は「聡明丸」です。
細川勝元と家督相続
1442年に父の細川持之が亡くなり、
細川勝元は13歳で家督を相続します。
叔父の細川持賢(もちかた)は
細川勝元をとても可愛がったそうです。
その叔父「細川持賢」のおかげで
細川勝元は様々な場所の守護となります。
※摂津、丹波、讃岐、土佐の守護
- 摂津の場所:大阪府
- 丹波の場所:兵庫県
- 讃岐の場所:香川県
- 土佐の場所:高知県
細川勝元の管領
細川勝元は1445年、
16歳で管領に就任します。
※管領(かんれい)とは、将軍を補佐して
内外の政治上の事務を統轄する役職。
細川勝元は、この管領の役職を
通算で約21年も務めたとされています。
管領になったことで細川勝元は、
室町幕府の重臣の一人に数えられます。
細川勝元と山名持豊の関係
細川勝元と山名持豊の関係について
あまり仲が良くないとされているのは
応仁の乱の際、敵対関係であったから。
しかし実は
この細川勝元と山名持豊の関係は
もともと友好的な関係でした。
この頃、幕府では前管領であった
畠山持国が政治を牛耳っていたそうです。
新しく管領になった細川勝元にとって
畠山持国は政治上とても邪魔な敵です。
この畠山持国に対抗するために
細川勝元は山名持豊と近づいたとされています。
具体的には
山名持豊(宗全)の子ども(養女)を
妻(正室)として迎えたり
山名持豊の息子である
山名豊久を養子にもしています。
細川勝元と応仁の乱
細川勝元は山名持豊と関係を深め
畠山持国を押さえつけるのには成功します。
ただし次第に
山名持豊が強大になっていくことを
細川勝元は危険視するようになります。
そして
細川勝元と山名持豊の仲は、
どんどん悪化していきます。
それに加えて将軍継嗣(跡継ぎ)問題や
畠山氏、斯波氏の家督争いなども絡み、
最終的には内乱を引き起こします。
1467年(応仁元年)、応仁の乱です。
京都を中心に全国に広がり、
11年間も続いた大乱となりました。
東西両軍に分かれて、細川勝元は
東軍の総大将として指揮を執ります。
この内乱は膠着(こうちゃく)状態が11年続き、
どちらが勝ったとも言えないまま
1473年3月に山名持豊が病死します。
そしてそのわずか2か月後、
細川勝元も追うように死亡。
応仁の乱自体は終わりますが、
この事件を境に室町幕府の権威は失墜。
室町時代の後期は戦国時代といわれるくらい
武士たちの争いが頻繁に起こることになりました。
そして、天下統一を目指す武士たちの手で
安土桃山時代の幕が開かれていくこととなります。
細川勝元の最期
大乱中であった
1473年6月6日(文明5年5月11日)に
細川勝元は病死します。享年44歳。
一説では、山名派による暗殺説も残されています。
細川勝元の多才な一面
細川勝元は政治面だけではなく
文化面においても多才だったそうです。
絵画、和歌、猿楽などの芸術や
犬追物(いぬおうもの)という武術も好み、
自身で医書を記すほど
医学にも精通していたとのこと。
また、禅宗を信仰していて京都に
龍安寺を建立したことでも有名です。
最後に
細川勝元とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
細川勝元について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
この情報が少しでも
あなたのお役にたてば幸いです。