一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)は
平安時代末期に起きた戦いです。
一ノ谷の戦いとは何か?
どのような戦いだったのか?などなど
一ノ谷の戦いについて
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
一ノ谷の戦いとは?
一ノ谷の戦いとは
寿永3(1184)年2月7日に、摂津国福原
および須磨で行われた源氏と平氏の戦いです。
現在でいう大阪府、兵庫県周辺を指します。
源義経がわずか70騎を率いて
平氏軍に奇襲攻撃を仕掛けて
平氏を敗走させたとする戦いです。
また源義経が”鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし”
をした戦いとしても有名です。
鵯越の逆落としとは?【一ノ谷の戦い】
”鵯越の逆落とし”とは、
防備が手薄な背後から城郭を攻撃する為、
源義義経は精鋭70騎を率いて、鵯越という
絶壁を駆け下り、平氏軍に奇襲を仕掛けたのです。
この奇襲によって平氏軍は大混乱となり
敗走するという伝説的な戦いとなりました。
しかし、急で険しい崖を
馬に乗った状態で駆け下りるのは
物理的にも難しいことと考えられており
”逆落とし”は『平家物語』の創作とされています。
平敦盛の最期【一ノ谷の戦い】
一ノ谷の戦いでは、平敦盛(あつもり)と
熊谷直実(くまがいなおざね)が一騎打ちをします。
『平家物語』の中でも有名な
「敦盛の最期」というエピソードは
このいちの一ノ谷の戦いでの出来事です。
熊谷直実は、我が子どもと変わらぬ
年頃であった平敦盛に同情し逃そうと考えます。
しかし他の源氏の武者から逃れることは
できまいと、泣く泣く首を斬ったというお話です。
戦いの後、熊谷直実は出家して
高野山で平敦盛の供養を行ったと言われています。
一ノ谷の戦いの経緯
寿永2(1183)年5月の
倶利伽羅峠の戦いで源義仲に敗れた平氏は
7月に安徳天皇と三種の神器を伴って
九州の大宰府へと逃亡します。
その後、源義仲と源頼朝の間で起こった
内輪もめの期間に勢力を回復した平氏は、
摂津国福原に進出します。
そして京に戻るために再び挙兵し、
須磨の一ノ谷という所で源氏を倒そうと計画します。
一方で、京都にいた源氏軍は、
軍勢を二手に分けます。
源範頼軍は西国街道を進んでいき、
源義経軍は丹波路を突き進みます。
源義経軍は、攻撃に備える平氏に
夜襲をかけて敗走させることに成功。
そしてさらに二手に分けて一ノ谷に向かわせます。
源義義経は、わずか70騎を率いて
一ノ谷の背後にそびえる鵯越に向かい、
明け方に警備の手薄な背後を襲ったのです。
奇襲をかけられた平氏軍は混乱し、
屋島(現在の香川県)へと逃れていきます。
最後に
一ノ谷の戦いとは何か?
どのような戦いだったのか?などなど
一ノ谷の戦いについて
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。