伊東甲子太郎の死因とは?どんな最後だった?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】

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戦う男の後ろ姿
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結論からいいますと
伊東甲子太郎の死因は暗殺です。

近藤勇に呼ばれて接待を受け、酔った後
伊東甲子太郎は新選組に殺害されました。

  • 伊東甲子太郎の誕生日:1835年1月1日
  • 伊東甲子太郎の命日:1867年12月13日

※伊東甲子太郎の最期(最後)の年齢は32歳

 

まず、伊東甲子太郎は
近藤勇に妾宅へ呼ばれました。

※妾宅(しょうたく):めかけを住まわせる家。

酒をのみ酔った伊東甲子太郎は
その帰り道に油小路の本光寺門前で
大石鍬次郎らにより暗殺されました。
※大石鍬次郎ら:新選組のメンバー

この事件は、油小路事件と呼ばれます。

 

伊東甲子太郎はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】

新撰組比翼録 勿忘草 第弐巻 伊東甲子太郎 声:平川大輔

伊東甲子太郎(いとうかしたろう)
幕末期(江戸時代後期)を生きた新選組の参謀です。

  • 伊東甲子太郎の誕生日:1835年1月1日
  • 伊東甲子太郎の命日:1867年12月13日

※伊東甲子太郎の最期(最後)の年齢は32歳

 

伊東甲子太郎とはどんな人だったのか
伊東甲子太郎は何をした人だったのかを
簡単な言葉でわかりやすく紹介していきます。

  • 伊東甲子太郎の誕生日
  • 伊東甲子太郎と北辰一刀流
  • 伊東甲子太郎、新選組に加盟
  • 伊東甲子太郎、新選組を脱退する
  • 伊東甲子太郎、御陵衛士を結成
  • 伊東甲子太郎と油小路事件
  • 伊東甲子太郎の最期

伊東甲子太郎の誕生日

伊東甲子太郎は
1835年1月1日(天保5年12月3日)
常陸国(現・茨城県)志筑(しづく)藩士である
鈴木忠明の子(長男)として生まれます。

 

甲子太郎の読み方は
「きねたろう」とも読めますが、
同じ時代の史料で”樫太郎”と
表記されたものがあることから
「かしたろう」が正しいとされています。

 

伊東甲子太郎と北辰一刀流

父の忠明が隠居後に
伊東甲子太郎が家督を相続しますが、
後に忠明の借金によって家名断絶となって
一家は志筑を追放されます。

 

伊東甲子太郎は水戸に遊学して
神道無念流剣術を身に着けます。

江戸に出て旗本の伊東精一に
北辰一刀流を学んで、婿養子となり伊東大蔵と称しました。

 

伊東甲子太郎、新選組に加盟

1864年10月に伊東甲子太郎は
藤堂平助の仲介で上洛します。

この年が甲年であったことから
伊東甲子太郎」と名乗ったそうです。

以下に挙げる同志たちも、
伊東甲子太郎に従って一緒に上洛しています。

  • 鈴木三樹三郎(実弟)
  • 篠原泰之進
  • 加納鷲雄
  • 服部武雄
  • 内海二郎
  • 中西昇

伊東甲子太郎は参謀および文学師範として
幕府を補佐する新選組に加盟します。

 

参謀は、それまで新選組総長を務めていた
山南敬助よりも格上の立場だった為、
近藤勇らが伊東甲子太郎に対して
並外れた待遇をしたことが分かります。

 

伊東甲子太郎は整った顔をもつ
美しい外見だっただけでなく

話し方も巧みだったことなどから、
とても評判が良かったと伝わっています。

 

しかし、伊東甲子太郎と新選組では
「攘夷」という思想は一緒でしたが、
伊東甲子太郎は幕府を補佐する考えではなく
「勤王」という幕府を倒す思想であった為、矛盾が生じていきます。

 

伊東甲子太郎、新選組を脱退する

そして1867年に伊東甲子太郎は、
薩摩藩の動向探索と孝明天皇の
御陵警備任務の拝命の名目で新選組を脱退。

 

伊東甲子太郎、御陵衛士を結成

弟の鈴木三樹三郎や盟友の篠原泰之進らと
ともに「御陵衛士(ごりょうえじ)」を結成します。

伊東甲子太郎と共に御陵衛士に移ったのは
14名いて、その中に藤堂平助もしました。

さらに斎藤一もいましたが、これは
近藤勇が仕組んだ密偵という説があります。

 

また、御陵衛士は東山高台寺真院を本拠にしたことから”高台寺党”とも呼ばれています。

 

伊東甲子太郎の最期(油小路事件)

新選組記念館青木繁男調べ・知り・聞いた秘話を語る! 新選組おもしろばなし 百話

 

1867年12月13日、伊東甲子太郎は近藤勇の妾宅に招かれます。

酔わされた伊東甲子太郎は、その帰り道に
油小路の本光寺門前で暗殺されてしまいます。
この事件を、油小路事件といいます。

伊東甲子太郎の暗殺は、新撰組隊士であった大石鍬次郎ら数名による犯行と言われています。

 

つまり、伊東甲子太郎は、
油小路事件で死亡しました。享年32歳。

伊東の遺体は路上に放置されて
御陵衛士を誘い出す囮(おとり)として使われます。

後に収容に来た御陵衛士は、
待ち伏せしていた新選組と戦い、藤堂平助らが戦死します。

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