大久保利通の盟友の西郷隆盛は
明治時代の1877年に西南戦争で亡くなりました。
その翌年に、
49歳で大久保利通も亡くなります。
彼の場合は、紀伊坂の変という
大久保利通暗殺事件で命を落としたのです。
紀伊坂の変とは何か?
場所はどこだったのか?などなど
紀伊坂の変について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
紀伊坂の変(大久保利通暗殺事件)とは?
紀尾井坂の変(きおいざかのへん)とは
1878(明治11)年5月14日に
紀尾井坂周辺で起きた大久保利通暗殺事件です。
明治初期、新政府に対する不満を
政府高官である大久保利通を暗殺する方法で
解決を目指した不平士族によるものでした。
暗殺を実行したのは
石川県士族と島根県士族の6名です。
- 島田一郎(しまだいちろう)
- 長連豪(ちょうつらひで)
- 杉本乙菊(すぎもとおとぎく)
- 脇田巧一(わきたこういち)
- 杉村文一(すぎむらぶんいち)
- 浅井寿篤(あさいとしあつ)
その中でも、中心的存在であるのは
征韓論に同感していた島田一郎で、
明治六年の政変後、国事に奔走しました。
「紀尾井坂の変」の状況【閲覧注意】
この日午前8時に大久保利通は
自宅を出発し、赤坂へ向かう途中でした。
同行したのは馬車を操る御者と
従者だったと言われています。
出発から30分後ほど、
暗殺者が馬車の馬の足を切って、
中から飛び降りた御者を刺殺します。
従者はなんとか逃げ切りますが
書類に目を通していた大久保利通は
馬車から引きずり降ろされて斬殺。
その際に、大久保利通は暗殺者に対して
「無礼者!」と一喝したと言われていますが
護身用の武器を持っておらず、殺されました。
16か所刺されたうち8か所は
頭部であったと記録が残っています。
脳は飛び散り、刀は首を貫通し、
地面に突き刺さっていたそうです。
恨みがこもった残虐きわまりない殺害でした。
大久保利通暗殺事件後の影響
1877年5月17日に執り行われた
大久保利通の葬儀には、1200名が集まり
その費用は4500円でした。
当時の警察官や教員の給料は
8~9円程度だった為、近代日本史上
最初の国葬級葬儀と言われています。
実はこの大久保利通暗殺事件は、
事前に大警視の川路利良の耳にも入っていました。
しかし、川路利良は
「石川県の不平士族などに何ができる」と
高をくくって対策をとらなかったそうです。
そして、この紀尾井坂の変によって
政府高官が移動をするときには数人の
近衛兵(このえへい)が護衛につくようになります。
紀尾井坂の変の場所は?
大久保利通暗殺事件の場所は、当時の
東京府麹町区麹町紀尾井坂町清水谷で
現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷のあたりです。
場所にちなんで、この事件は
「紀尾井坂の変」と呼ばれています。
自宅のある麹町区三年町裏霞ヶ関から
明治天皇の赤坂仮皇居に向かうところであったそうです。
最後に
この記事では
紀尾井坂の変(大久保利通暗殺事件)の
場所などについて、なるべく
わかりやすく簡単な言葉で解説しました。