松原忠司ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】
松原忠司(まつばらちゅうじ)は
幕末期(江戸時代後期)を生きた
新撰組の四番隊組長です。
誕生時期:不明
死亡時期:1865年10月20日
ここでは
松原忠司とはどんな人だったのか
何をした人だったのかを紹介していきます。
目次
松原忠司とは?何をした人?【生涯をざっくりわかりやすく解説】
- 松原忠司の誕生日
- 「今弁慶」の異名【松原忠司の別名】
- 新撰組四番隊組長「松原忠司」
- 松原忠司の最期
松原忠司の誕生日
松原忠司は
1835年頃に播磨国小野藩(現・兵庫県)の
藩士の子として誕生します。
※松原忠司の具体的な誕生日は不明です。
1854年頃の安政年間に脱藩した松原忠司は、
大坂(現・大阪府)で北辰心要流(ほくしんしんようりゅう)
という柔術の道場を開いていたと伝わっています。
柔術(じゅうじゅつ)…柔道や空手など素手で打つ、蹴る、投げる、などの方法によって相手を攻撃する日本古来の武術。
また、新選組隊士の永倉新八の記録だと
松原は”大坂浪人”であったとされています。
「今弁慶」の異名【松原忠司の別名】
松原忠司は1863年5月までに、新選組の
前身である壬生浪士組(みぶろうしぐみ)の
最初の募集に応じて入隊しています。
八月十八日の政変では
仙洞御所前および裏御所南門の警備。
その時の松原忠司の風貌が
坊主頭に白い鉢巻を巻いていて、
脇には”大なぎなた”を携えるという
弁慶さながらの戦闘態勢であったことから今弁慶という異名をとりました。
新撰組四番隊組長「松原忠司」
また、新撰組で有名な池田屋事件で
松原忠司は土方歳三の隊に属し、
屋外の警備に務めた功績で報奨金15両を賜ります。
こうした活躍をつづけた松原忠司は、
1865年4月の組織再編では四番隊組長および柔術師範となります。
松原忠司の最期
しかし四番隊組長になってから
わずか4か月後。
松原忠司は、
1865年10月2日(元治元年9月1日)に亡くなります。
享年31歳と言われています。
松原忠司の墓は、
京都府の光緑寺(こうえんじ)にあります。
松原忠司ってどんな人?【松原忠司の性格】
松原忠司は親切者
「親切者は山南、松原」という言葉が
伝わっている程、松原忠司は
温厚な人柄であったようです。
八月十八日の政変で、
近藤勇や土方歳三に甲冑が用意されていたのに、
総長である自分の甲冑が用意されていないことに怒った山南を松原がなだめたという話も残っています。
松原忠司の死因は諸説あり
松原忠司の死因は諸説あり、
次の2つの説が有名です。
- 病死説
- 心中説
これらの説について簡単に紹介します。
病死説【松原忠司の死因】
新撰組の記録によると、
松原忠司の死因は病死とされています。
しかし、具体的な病名などについての記録はありません。
心中説【松原忠司の死因】
もう一つは松原忠司が
心中したとする説です。
松原忠司は、自分が殺した浪士の妻を
妾として囲っていて、そのことを
土方歳三に厳しく咎められたそうです。
その責任を取ろうとして切腹しますが、失敗。
幹部から平隊士に降格した松原は
新撰組の屯所から姿を消します。
新撰組の隊士が松原を探しに
妾の家を訪ねると、松原と妾であった女性が
血の海の中で死んでいたそうです。
この説は、子母澤寛(しもざわかん)もしくは
八木為三郎が「新撰組物語」にて
「壬生心中」として創作したのではないかと言われています。
最後に
新撰組の四番隊組長だった
松原忠司とはどんな人だったのか
何をした人だったのかを紹介しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。