永倉新八ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

WRITER
 
過去をみつめるおじいさん
この記事を書いている人 - WRITER -

新撰組顛末記 (新人物文庫 な 1-1)

永倉新八(ながくらしんぱち)とは
幕末期(江戸時代末期)に誕生し
大正時代まで生き続けた
新撰組二番隊組長です。

また、撃剣師範も務めました。

誕生時期:1839年5月23日
死亡時期:1915年1月5日

 

この記事では
永倉新八とはどんな人だったのか
何をした人だったのかを
わかりやすく簡単な言葉で解説していきます。

 

 

永倉新八ってどんな人?

新選組 永倉新八外伝

永倉新八の誕生日

永倉新八は
1839年5月23日(天保10年4月11日)に
松前藩上屋敷(現・東京都台東区)
松前藩江戸定府取次役である
永倉勘次(かんじ)次男として誕生します。

松前藩(現・北海道)出身ですが、
江戸で生まれて江戸で育ちます。

 

剣術好きで脱藩

永倉新八は幼い頃に岡田利章の
神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門。

15歳で紙切、18歳で目録と着実に
剣術の腕を磨きます。

1856年、元服して新八と名乗って
剣の技術を磨くために、脱藩します。

 

その後、近藤勇の道場である天然理心流「試衛館」の居候となります。

 

永倉新八、新選組の二番隊組長に

永倉新八は、近藤勇らと共に
浪士組に参加するため上洛します。

芹沢鴨(せりざわかも)と永倉は同じ神道無念流
親しかったことから、芹沢鴨暗殺の際に
永倉は参加していなかったそうです。

新選組結成後は、
二番隊組長撃剣師範を務めるなど活躍します。

 

永倉新八と池田屋事件

歴史でも有名な池田屋事件では、
近藤や沖田総司らと共に突入して
永倉新八は左手親指に深い傷を負いながら
刀が折れて、防具がボロボロになるまで戦いました。

 

この活躍によって、新選組は
その名を天下に轟かせることとなります。

 

しかしその後、近藤勇に
ワガママな振る舞いが目立つようになると、
不満に思った永倉新八は、斎藤一らと共に
脱藩と切腹覚悟で近藤の非行五箇条
会津藩主の松平容保(かたもり)へ直訴しています。

両者は容保のとりなしで和解します。

 

 

靖兵隊を結成

1868年の鳥羽伏見の戦いでは
決死隊を募って銃弾戦の中、永倉新八は
刀一つで果敢に参戦しますが、敗北します。

 

そして甲州勝沼の戦い後、
ついに近藤勇との関係を断って
靖兵隊(せいへいたい)を結成します。

北関東にて抗戦しますが、
会津藩が降伏したことを知って江戸に戻ります。

 

 

後に永倉新八は、松前藩に戻ります。

1871年には藩医の杉村介庵の
婿養子となり家督を相続します。
杉村治備(後に義衛と改名)と名乗ります。

 

明治維新の後は北海道小樽に移って
刑務所の剣術師範を務めて、
退職後は東京牛込にて剣術道場を開きます。

 

また、晩年は
新撰組に関する「新選組顛末記」や
七ケ所手負場所顕ス」などを記して、
近藤勇や土方歳三の墓を建立したり新選組の功績を顕彰しました。

 

永倉新八の最期

永倉新八は1915年(大正4年1月15日)、
虫歯が原因で骨膜炎と敗血症を患い、
小樽にて亡くなります。享年77歳。

 

 

最後に

新撰組顛末記 (新人物文庫 な 1-1)

 

この記事では
永倉新八とはどんな人だったのか
何をした人だったのかを
わかりやすく簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

 

この記事を書いている人 - WRITER -

Copyright© でも、日本が好きだ。 , 2018 All Rights Reserved.