鍋島直正(なべしまなおまさ)は
江戸時代後期から明治時代初期までを生きた大名です。
誕生時期:1815年1月16日
死亡時期:1871年3月8日
鍋島直正とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
鍋島直正について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
鍋島直正ってどんな人?
鍋島直正の誕生日
鍋島直正(なべしま なおまさ)は
1815年1月16日(文化11年12月7日)に
肥前国佐賀(現在の佐賀県)藩主9代目である
鍋島斉直(なりなお)の十七男として誕生します。
第10代肥前国佐賀藩主の鍋島直正
1830年、父の隠居を受けて17歳で
第10代肥前国佐賀藩主となります。
十七男なのに父の家督を直接継げたのは
母が正室であったことと、自身の妻に
11代将軍の徳川家斉の十八女の盛姫(孝盛院)を
迎えることが決まっていたからです。
鍋島直正の財政改善
当時の佐賀藩は、近くの貿易港である
長崎の警備などの負担が重く、台風などの
被害もあった為、財政難となっていました。
藩財政を立て直すために、鍋島直正は
役人を5分の1に削減するなどで歳出を減らします。
また磁器や茶、石炭などの殖産興業や
優秀な人材を登用するなどの教育改革、
農村復興などの政策を行い、財政の改善を図ります。
鍋島直正と佐賀藩近代化
鍋島直正は、長崎へ赴くと
停泊中だったオランダ船に乗らせてもらい
船内を視察した際に、日本と西洋との
軍事技術の差に衝撃を受けたそうです。
鍋島直正は、長崎警備の強化を考えますが
当時の幕府は財政難であったことから
支援を得ることはできませんでした。
そのため、独自に大砲の鋳造や
反射炉の設立などの科学技術の
導入と展開を図ったのです。
佐賀藩は、1853年のペリー来航の時に
日本で唯一鉄製の大砲製造に成功しています。
鍋島直正の活躍は、
佐賀藩近代化へとつながったのです。
鍋島直正と天然痘
他にも鍋島直正は、
江戸時代で多くの人が脅かされていた
天然痘に対する予防接種(種痘)を行います。
オランダから牛痘ワクチンを輸入して
医師の緒方洪庵(おがたこうあん)に分け与えています。
このことが、のちの日本で
天然痘の根絶につながることとなったのです。
鍋島直正は、学問においても
蘭学や英学を奨励して
海外文明の成長(移植)に努めています。
鍋島直正と明治維新
ペリー来航の際は攘夷論者でしたが、
のちは公武合体派として活動します。
明治維新後の鍋島直正は
新政府の下で議定、上院議員、
蝦夷開督使長官などを兼任し、
その後は岩倉具視と同じ大納言となります。
鍋島直正は、薩長土肥と呼ばれる
藩閥の一角を形成するうえに
大きな役割を果たしました。
鍋島直正の最期
鍋島直正は
1871年3月8日(明治4年1月18日)に
持病の肺患が悪化して病死します。享年58歳。
最後に
鍋島直正とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
鍋島直正について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。