日露戦争は明治時代に起きた
日本とロシアの戦争です。
日露戦争とは何か?
どのような戦争だったのか?などなど
日露戦争について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
日露戦争とは?
日露戦争(にちろせんそう)とは
1904(明治37)年2月8日から
1905(明治38)年9月5日にかけて
大日本帝国(日本)とロシア帝国(ロシア)の間で行われた戦争です。
1904年に開戦し、日本は一年かけて
ロシア軍の旅順要塞を占領します。
そして翌年に日本は奉天会戦で大勝利し、
その後の日本海海戦ではロシアの
バルチェック艦隊を破ります。
1905年9月に日露両国は、アメリカ大統領の
セオドア=ローズヴェルトの仲介で
ポーツマス条約を締結し、日露戦争は
日本の勝利で幕を閉じたのです。
日露戦争の結果、日本は
朝鮮(韓国)の保護権が承認されます。
さらにロシアからは
南樺太、南満州鉄道の利権と
旅順、大連の租借権を得たのでした。
日露戦争による影響
アジアの小さい島国である日本が
ロシアに勝利したというのは、日本だけでなく
世界にも大きな影響をもたらします。
日露戦争の勝利によって日本は
世界の列強と肩を並べることができました。
さらに、1910年には韓国併合をして
植民地化するなど日本の大陸進出が大きく進んだのです。
一方で日露戦争は日清戦争とは
比較にならない戦費を必要としました。
そのため明治37、38年の第一次・第二次
非常特別税による増税が行われます。
非常特別税は地租や営業税、所得税、酒税など
税目ごとに増税分が決められ、戦争終結後に
は廃止される予定の臨時的なものだったのです。
日露戦争の経緯
ここでは
日露戦争が起こった経緯を
簡単に解説していきます。
日露戦争が起こった大きな原因は
朝鮮および中国東北地方である満州の
支配権をめぐる対立から発展したからです。
下関条約と三国干渉【日露戦争の経緯】
1894年に日本と清国(中国)との間で起きた
日清戦争で勝利した日本は、
翌年に清国と下関条約を結びます。
その条約に、中国の遼東半島を
日本に割譲するという内容がありました。
しかしこの遼東半島はロシア、ドイツ、
フランスからの三国干渉によって、
清国に返還を強いられます。
義和団事件【日露戦争の経緯】
三国干渉を受けて以来、
日本とロシアとの間で対立は深まります。
そしてその後、1900年に中国で起きた
義和団事件が起こります。
その義和団事件の後、
ロシアが満州から兵を引き上げなかった為
日本ではロシアへの不満が高まります。
そして日本は、1902年に
ロシアの南下を警戒していたイギリスと
利害が一致し、日英同盟を結びます。
このことで日本とロシアの対立は決定的となり
国内ではロシアと戦うべきだという意見が強まりました。
なぜ日本はロシアに勝ったのか?
人口、国面積ともに
大きな差のある日本とロシアですが、
なぜ日本はロシアに勝ったのでしょうか?
大きな勝因は2つ考えられます。
- 日本軍の士気の高さ
- 日本はイギリスからの支援があった
ロシア軍は、
日本の軍事力をかなり下に見ていたため、
日本軍との士気の高さが違ったと考えられます。
また、日本の軍事力はけして低くなく
有坂成章が日露戦争の直前に作った
口径6.5ミリの「三十年式歩兵銃」も
日露戦争で活躍したと伝えられています。
この有坂成章の銃は、命中確率で
ロシアの「1891年式歩兵銃」を上回っていたそうです。
現在でも世界のマタギたちにより
この「三十年式歩兵銃」は
猟銃として使われています。
通称、「アリサカ・ライフル」。
また、日本はイギリスを味方にしたことで
軍事面や財政面でも支援を受けることが
できたことも大きな勝因の一つといえるでしょう。
最後に
この記事では日露戦争とは何か?
どんな戦争だったのか?などなど
日露戦争についてなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。