新島八重(にいじまやえ/やゑ)は
江戸時代から昭和時代初期まで生きた女性です。
誕生時期:1845年12月1日
死亡時期:1932年6月14日
新島八重は明治時代に活躍した女性で
同志社創立者の新島襄の妻でもあります。
激動の時代を男子ながらに戦い、
「幕末のジャンヌダルク」として
今日まで語り継がれています。
新島八重とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
新島八重について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
新島八重ってどんな人?
新島八重の誕生日
新島八重(にいじまやえ/やゑ)は
1845年12月1日(弘化2年11月3日)に
会津藩(現在の福島県)の砲術指南役である
山本権八(ごんぱち)、佐久(さく)夫妻の三女として誕生します。
新島八重は男まさりな性格だったそうで
米俵を持ち上げるなどしていたそうです。
幼い頃から裁縫よりも砲術に興味を持ち、
特に実兄の山本覚馬(かくま)からは
洋式砲術の操作法を学んだと伝わります。
1865年に藩校の教授を務めていた
川崎尚之助と結婚します。
新島八重と戊辰戦争
1868年に戊辰戦争が始まると、
会津藩は新政府軍から侵攻を受けます。
最新兵器を使った新政府軍が優勢で
会津藩兵は追い込まれていきます。
武家の子女も煮炊きや救助活動で
籠城戦に参加します。
そこで新島八重は鶴ヶ島籠城戦で
自らも七連発スペンサー銃と
刀を持って男子さながら戦いました。
新島八重は
この戦いで父や弟を亡くした上、
鳥羽伏見の戦いでは
兄の覚馬も新政府軍に捕らわれます。
そして新政府軍に敗れた
会津は、故郷を失います。
敗戦後、夫の川崎直之助は
捕虜となり、生き別れとなりました。
新島八重と京都上洛
1871年、26歳の新島八重は
京都府顧問となっていた兄の
山本覚馬を頼って上洛します。
兄の推薦により、京都女紅場の権舎長・
教導試補となり、礼法や養蚕の指導をします。
また兄の影響を受け、英語や
キリスト教、洋風生活を身に着けます。
新島八重と新島襄
1875年、新島八重は
兄の元に出入りしていた
新島襄(にいじまじょう)と出会います。
翌年に2人は婚約をし、新島襄は
同志社英学校を開校します。
新島八重の潔い振る舞いから、
夫は彼女をハンサムと称しています。
欧米スタイルが身についてた新島襄と
男勝りの新島八重はお似合いの夫婦でした。
車には夫よりも先に乗るなどして、
当時まだ知られていなかった
欧米スタイルを実践し、周囲からは
「悪妻」と評されていたそうです。
新島八重と叙勲
1890年に新島襄が急逝。
その後も新島八重は
自身のスタイルを貫きます。
日本赤十字社の正社員として
日露戦争では看護活動に尽力。
この功績が認められて、
皇族以外の女性で初めて政府から叙勲を受けました。
新島八重の最期
新島八重は
1932(昭和7)年6月14日に亡くなります。享年86歳。
最後に
新島八重とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
新島八重について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。