沖田総司ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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沖田総司 (主婦の友ヒットシリーズ)

 

沖田総司(おきたそうじ)とは
幕末期(江戸時代末期)から
明治時代初期までを生きた幕末期の志士です。

誕生時期:1842年7月8日
死亡時期:1868年7月19日

 

新撰組の一番隊組長を務め
剣術の師範としても活動していました。

 

この記事では
沖田総司とはどんな人だったのか
沖田総司は何をした人だったのかを
なるべく簡単な言葉でわかりやすく紹介していきます。

 

 

沖田総司ってどんな人?

沖田総司 (新人物文庫 お 2-1)

沖田総司の誕生日

沖田総司は1842年頃に
陸奥国(現・福島県)白河藩藩主である
沖田勝次郎の息子として
江戸の
白河藩屋敷(現・東京都港区西麻布)生まれたとされています。

 

しかし、沖田総司の父の名前を
正確に伝える史料は残っておらず、
生年も1842年と1844年の説とがあります。
なので、正確な誕生日についても不明です。

 

沖田総司は幼くして父を亡くしており、
姉のみつが婿に林太郎を迎えて相続させています。

 

 

沖田総司、試衛館塾頭に

沖田総司が9歳の頃に江戸にあった
天然理心流の道場の試衛館に弟子入りします。

沖田総司は9歳であるにも関わらず
大人に剣術で勝ったという程の腕前で、
その強さは試衛館でも抜きんでていたそうです。

ここでのちに新選組結成の中心人物となる
近藤勇土方歳三とは同門にあたります。

沖田総司は若くして試衛館塾頭を努めて
1856年には近藤勇と共に出稽古に出かけている記録があります。

 

 

 

新選組の一番隊組長「沖田総司」

1863年、沖田総司は
浪士組結成に参加して京に上洛。

浪士組内で二手に分裂しますが、
沖田総司は近藤勇らに従い残留して
のちに新選組と名前が改められます。

 

剣術に長けていた沖田総司は、
剣豪がひしめく新撰組の中でも
一番隊組長という立場で常に
重要な任務をこなしたといわれています。

この新撰組は、
京都へ向かう江戸幕府14代将軍の徳川家茂の警備も任されています。

 

 

 

沖田総司と池田屋事件

幕末の志士 龍馬とその時代 第7巻 “新撰組躍動” 池田屋事件 (【図説】日本の歴史)

 

1864年の池田屋事件においても
近藤勇らと共に最初に池田屋に踏み込みます。

 

また諸説ありますが、
沖田総司はこの奮戦の最中に
肺結核による咳で血を吐き出した為、
途中で離脱したと言われています。

 

沖田総司が新選組で活躍したのは
わずか4~5年だけなのですが、
それでも現代にまで語り継がれるほど強い印象を残した実力者です。

 

 

沖田総司と鳥羽伏見の戦い

1867年以降、沖田総司は
体調が悪化したことにより、
第一戦で活躍することがなくなります。

沖田総司は鳥羽伏見の戦いにも参戦できずに
そのまま大阪から東京へと病床を移して、
幕医の松本良順に匿われながら療養します。

 

 

沖田総司の最期(死因など)

沖田総司は
1868年7月19日(慶応4年5月30日)
肺結核で亡くなったとされています。

享年24歳から27歳の間と考えられています。

 

 

沖田総司は明るい人柄だった?

沖田総司―誠一筋の天才剣士 (歴史群像フィギュアシリーズ 3)

 

沖田総司は、剣術の師匠でもあった
近藤勇を強く尊敬していたと言われています。

 

また、人物像ですが、仕事に関しては
黙々と任務を遂行していたようで、
隊士への稽古も厳しかったと伝わります。

 

しかし、仕事を離れると陽気で明るく
愛想のよい人物だったようで、
新撰組時代も子供たちと笑顔で遊んでいたそうです。

 

 

最後に

沖田総司 - 新選組孤高の剣士 (中公文庫)

 

この記事では
新撰組の一番隊組長である
沖田総司はどんな人だったのか
何をした人だったのかなどを
なるべく簡単な言葉でわかりやすく解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

 

 

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