遣隋使「小野妹子」ってどんな人?何をした人?性別は男?【わかりやすく簡単に解説】

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舟と人
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小野妹子・毛人・毛野:唐國、妹子臣を號けて蘇因高と曰ふ (ミネルヴァ日本評伝選)

小野妹子(おののいもこ)
飛鳥時代遣隋使として有名ですよね。

 

 

小野妹子とはどんな人なの?
何をした人なのか?その他、性別などなど
遣隋使「小野妹子」について
分かりやすく簡単に解説していきます。

 

 

遣隋使「小野妹子」ってどんな人?

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遣隋使「小野妹子」の誕生日

小野妹子の生没年は不明ですが
587年には戦に出た子供がいたという
伝承から、妹子は530~540年頃に
生まれたのではないかと推測されています。

 

古代皇族である天足彦国押人命
祖先とする天皇家の一族でした。

しかし妹子が生まれたときには、
近江国滋賀郡小野村の豪族だったようです。

 

小野妹子の性別は男性!?

小野妹子の名前には「子」の文字があり
誰もが「小野妹子って女性だったの?」と
思ったことがあるかもしれません。

しかし、名前に「子」を入れるのが
女性という概念は現代のことで、実は昔は
男性の名前につける文字だったのです。

当時、聖徳太子と共に活躍した
蘇我馬子にも使われており、古代中国の
儒学者である孔子や孟子を参考にしたのかも。

しかし、小野妹子には
」という女性を表す文字も
使われていることから、
実は女性だったのではと考える説もあるのです。

 

 

小野妹子、遣隋使に

遣隋使がみた風景: 東アジアからの新視点

小野妹子は607年に推古天皇
摂政である聖徳太子に登用されて
当時(ずい)と呼ばれた
中国への使者(遣隋使)という
大役に任命されたのです。

 

これは技術や文化、仏教などの学問を
学ぶための外交官および留学生の
役割を持っていたのです。

当時、中国では戦乱が続いていた為、
日本と中国との国交は長く途絶えていました。

 

聖徳太子の手紙

聖徳太子(1)

小野妹子は、聖徳太子の
手紙を持って隋へ渡ります。

聖徳太子の手紙には以下の記述が。

日出る処の天子、書を没する処の天子に致す

これは、
日が昇る東の国の天子(聖徳太子)が
日が沈む西の国の天子(隋の皇帝)に
手紙を書きますといった意味にあたります。

これだと、日本の方が上位であるのと
隋の衰退とも考えられるような
文言である為、隋の皇帝は怒りました。

 

しかし、当時高句麗と対立していた隋は、
日本が高句麗と手を結ぶことを恐れて、
これを許し国交を結ぶことを認めたのです。

 

 

小野妹子が手紙を紛失?

608年、小野妹子は日本に帰国します。

しかし、中国からの手紙を
小野妹子が紛失してしまった為に
一時流刑にされてしまいます。

 

でも実は手紙を紛失していなかったけど、
手紙の内容が不利益だった為に、
紛失したことにしたという説もあります。

 

小野妹子、再び隋へ渡る

小野妹子はすぐにお許しが出て、
608年にふたたび隋へ渡っています。

この時には高向玄理や、南淵請安、
旻ら8人も同行し、彼らは中国で30年間
しっかりと勉強をしてから日本に戻っています。

彼らはのちに大化の改新
活躍することとなります。

 

小野妹子は、
翌年の609年には日本に帰国していて、
冠位十二階の最高の位
を授けられたそうです。

 

最後に

小野妹子

小野妹子とはどんな人なの?
何をした人なのか?その他、性別などなど
遣隋使「小野妹子」について
分かりやすく簡単に解説しました。

 

 

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