大久保利通(おおくぼとしみち)は
幕末期から明治維新に活躍をした政治家です。
そんな大久保利通には
一人の妻(奥さん)がいました。
そして大久保利通には
めかけ(愛人)も一人いました。
この記事では
大久保利通の妻や愛人について紹介していきます。
大久保利通の妻(奥さん)「大久保満寿子」について
大久保利通は幕末期から明治時代に活躍し、
「維新の三傑」の一人と称されています。
そんな大久保利通を支えた妻が
大久保満寿子(おおくぼ ますこ)です。
大久保満寿子は
通称「満寿(ます)」と呼ばれていました。
大久保利通の妻「大久保満寿子」はどんな人?
大久保満寿子は、
薩摩藩士の早崎七郎右衛門の
次女として生まれます。
誕生日などは不明です。
大久保満寿子には2人の弟がいて
弟「早崎七郎」は海軍少佐、
弟「早崎源吾」は海軍少将となっています。
大久保満寿子は大久保利通の妻として
鹿児島で家を支えていましたが、
1874年に上京し、大久保利通と一緒に暮らし始めます。
しかし1875年5月に
大久保利通は「紀尾井坂の変」で
暗殺されてしまいます。
大久保満寿子は大久保利通が亡くなってから
体調を崩してしまい、
夫のあとを追うように、12月7日に亡くなります。享年42歳。
大久保満寿子は5人の子どもを授かる
大久保利通と大久保満寿子には
5人の子どもがいました。
- 大久保和利(としなか)
- 牧野伸顕(のぶあき)
- 大久保利武(としたけ)
- 石原雄熊(たけくま)
- 大久保芳子(よしこ)
大久保満寿子の子どもたちは、
ほとんどが父と同じ政治家の道を歩んでいます。
ちなみに次男の牧野伸顕の娘・雪子は
内閣総理大臣・吉田茂氏の妻であり、
その孫があの麻生太郎氏です。
大久保利通の愛人(めかけ)「おゆう」
大久保利通には、おゆうという
妾(めかけ)がいたことも知られています。
※妾(めかけ)とは、簡単にわかりやすくいうと愛人のことを指します。
おゆうは、京都祇園のお茶屋、
一力亭の芸妓と考えられています。
大久保利通とおゆうの間には
4人の息子がいました。
- 大久保利夫(としお)
- 大久保駿熊(はやくま)
- 大久保七熊(ななくま)
- 大久保利賢(としかた)
当時、法律でも妾は認められていて
藩を離れた武士が愛人を持つことは珍しくなかったようです。
大久保利通の結婚が遅かったのはなぜ?
1857年、大久保利通が28歳のときに
21歳の大久保満寿子と結婚をしています。
当時、本来ならば男性も20歳頃には
結婚している人が多かったのですが、
大久保利通は遅めの結婚となります。
それは、薩摩藩の跡継ぎ問題である
「お由良騒動」に巻き込まれた為です。
琉球館掛に努めていた父・利世が罷免、
さらに鬼介島に流刑となるだけでなく、
大久保利通自身も記録所書役助を免職・
蟄居させられるなど、大きい被害を受けます。
※蟄居:家の中にとじこもって外出しないこと。
元々下級藩士で、生活はそこまで豊かではなく
この事件によって大久保家はさらに困窮し、
とても結婚できるような状況ではなかったのです。
しかし、後に大久保利通は
薩摩藩主となった島津久光から高い評価を受け
側近として出世街道を突き進んでいったのです。
最後に
この記事では
大久保利通の妻について紹介しました。
大久保利通の妻(奥さん)として
大久保満寿子(おおくぼ ますこ)が挙げられます。
そして大久保利通の愛人だったおゆうも有名な歴史上の人物です。