嵯峨天皇(さがてんのう)とは
奈良時代から平安時代までを生きた
日本の第52代天皇です。
誕生時期:786年10月10日
死亡時期:842年8月24日
嵯峨天皇とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
嵯峨天皇について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
嵯峨天皇とは?どんな人?【生涯をざっくりわかりやすく解説】
- 嵯峨天皇の誕生日
- 嵯峨天皇の即位
- 嵯峨天皇と平城上皇の対立
- 嵯峨天皇と薬子の変
- 嵯峨天皇の政治
- 嵯峨天皇と三筆
- 嵯峨天皇の最期
嵯峨天皇の誕生日
嵯峨天皇(さが てんのう)は
786年10月3日(延暦5年9月7日)に
桓武天皇と藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)の
第2皇子として生まれます。
名は神野(賀美能)皇子。
同母兄に平城天皇、
異母弟に淳和天皇がいます。
嵯峨天皇の即位
806年、兄の平城天皇即位に伴い
父の桓武天皇の意向によって
神野皇子(嵯峨天皇)が皇太子(弟)に立てられます。
※皇太子=次期天皇候補の第一順位の人。
しかし平城天皇は病にかかった為、
わずか3年後の809年に神野皇子に譲位、
神野皇子が嵯峨天皇として即位します。
嵯峨天皇は、平城上皇の子どもで
自身の甥にあたる高岳親王を皇太子とします。
嵯峨天皇と平城上皇の対立
ところが平城上皇は病が回復すると、
平城上皇の側近であった藤原薬子(くすこ)や
藤原仲成(なかなり)にそそのかされて
ふたたび天皇になろうと画策をします。
嵯峨天皇に譲位後、平城上皇は
側近たちを連れて場所を平城京へ移ります。
そして翌年810年、嵯峨天皇を無視して
都を平城京にしようという命令を下したのです。
そして上皇として政治に介入し、
”二所の朝廷”と呼ばれる状態に陥ります。
嵯峨天皇と薬子の変
これに怒った嵯峨天皇ですが、
冷静に対処をします。
嵯峨天皇が迅速に兵を動かして
藤原薬子の官職を免じ(解官)て、
藤原仲成を射殺します。
この結果、藤原薬子は自害して、
平城上皇は出家して幕を閉じます。
この事件を一般的に
「薬子の変(くすこのへん)」と呼びますが、
嵯峨天皇が罪を平城上皇に及ぼさないように
この名にしたのであり、実は平城上皇が
深く関わっていたと考えられています。
そのため、最近では
「平城太上天皇の変」とも言います。
また、この事件によって次期天皇候補と
なっていた高岳親王は廃されます。
しかし、自分の子どもを皇太子にすることに
遠慮をした嵯峨天皇は、異母弟の大伴親王
(淳和親王)を皇太弟に立てます。
これが後の承和の変の間接的な原因となります。
嵯峨天皇の政治
818年、嵯峨天皇は弘仁格(こうにんきゃく)を
発布し、死刑を廃止します。
他にも治安を守るために
検非違使(けびいし)の設置や、
国家所有の田畑として公営田(くえいでん)を設置します。
嵯峨天皇の政治は約30年、続きました。
嵯峨天皇と三筆
嵯峨天皇は書道に優れていて
弘法大師空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)と
共に三筆として讃えられました。
他には詩文にも優れ、
勅選漢詩集「凌雲集」「文華秀麗集」に多くの詩を残しています。
嵯峨天皇の最期
嵯峨天皇は
842年(承和9年)8月24日に亡くなります。享年55歳。
最後に
嵯峨天皇とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
嵯峨天皇について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。