佐賀の乱とは何か?【場所などもわかりやすく解説】
佐賀の乱(さがのらん)は
1874年に佐賀県で起こった
武士による反乱です。
明治時代に起きた
不平士族の代表的反乱と言われています。
佐賀の乱とは何か?
場所はどこだったのか?などなど
佐賀の乱について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
佐賀の乱とは?
佐賀の乱は
1874(明治7)年2月1日から3月1日まで
江藤新平(えとうしんぺい)、島義勇(しまよしたけ)らを
リーダーとして起こった
明治政府に対する反乱です。
佐賀の役、佐賀戦争とも呼ばれています。
佐賀の乱は、明治政府によって
2月いっぱいで鎮圧されます。
江藤新平は四国へ、島義勇は鹿児島へ
逃走しましたがそれぞれ捕えられ、
鎮圧後に”さらし首”の刑に処せられます。
この佐賀の乱によって
他に斬罪11名、懲役130名と
多くの不平士族が罰せられました。
佐賀の乱の場所は?
佐賀の乱が起こった場所は
九州の佐賀県全域です。
佐賀県佐賀市にある佐賀城攻撃から、佐賀の乱は始まりました。
明治新政府軍は現在の佐賀県鳥栖市(とすし)から
長崎街道沿いに西方向、佐賀へと進軍します。
一方の佐賀軍は
鳥栖市朝日山、みやき町豆津、
江見、六田、寒水川(しょうずがわ)、
田手川(たでがわ)で敗北を重ねていきます。
追い詰められた佐賀軍が、
最後の拠点とした境原宿の若宮神社は
現存しており、その肥前鳥居は神埼市の
重要文化財に指定されています。
佐賀の乱の経緯
1874年1月に、佐賀藩出身で
明治新政府の参議であった江藤新平が、
大久保利通や岩倉具視らとの
征韓論をめぐる政治的抗争に敗れます。
江藤新平は、
薩摩藩出身の西郷隆盛と同じく
朝鮮へ出兵する計画を支持していました。
しかし大久保利通らは、
まず日本の内政を整えることの方が
大切であると反対したのです。
そして征韓論で敗れた江藤新平は
政府を辞職して佐賀へ下野します。
当時の佐賀では
征韓論を支持する「征韓党」と、
江戸時代の政治体制の封建制度復活を
願う「憂国党(ゆうこくとう)」などがあり、
明治新政府に反対する士族が多くいました。
目的は異なる征韓党と憂国党でしたが、
明治新政府への不満という点では一致した為、
両党が協力して、反乱を企てたのです。
佐賀の不平士族たちは、
江藤新平が佐賀へ戻ってきたことを知ると
江藤新平と島義勇を大将として、
大反乱である佐賀の乱を起こしたのです。
ちなみに、江藤新平と大久保利通は
とても仲が悪かったそうです。
そのため佐賀の乱後に
江藤新平を捕えると、わずか2日で
江藤新平の死刑が確定し、即日処刑されます。
同じく内乱を起こした榎本武揚は許され、
江藤新平は斬罪となった判決に、イギリスの
パークスなど外国から明治政府への批判が出たそうです。
最後に
この記事では
佐賀の乱の場所や佐賀の乱について
なるべくわかりやすく簡単な言葉で解説しました。