高野長英(たかのちょうえい)は
江戸時代後期を生きた医者、蘭学者です。
誕生時期:1804年6月12日
死亡時期:1850年12月3日
高野長英とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
高野長英について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
高野長英ってどんな人?
高野長英の誕生日
高野長英(たかの ちょうえい)は
1804年6月12日(文化元年5月5日)に
陸奥国仙台藩の一門である水沢伊達氏家臣の
後藤実慶の三男として生まれます。
9歳で父を亡くし、
伯父である高野玄斎の養子となります。
高野玄斎が江戸で杉田玄白に
蘭方医学を学んだことから、高野長英も
学問に強い関心を持っていたそうです。
高野長英と鳴滝塾
17歳になると、高野長英は
養父の反対を押し切って長崎に留学。
シーボルトが開いた鳴滝(なるたき)塾で
医学を中心とした蘭学を学びます。
優秀な成績を収めた高野長英は、
入学翌年にはドクトルの称号を賜ります。
高野長英とシーボルト事件
1828年にシーボルト事件が起こります。
帰国しようとしたシーボルトが、
持ち出し禁止の日本地図を入手したことが
幕府にばれて、国外へ追放されてしまいます。
これに協力した高橋景保は獄中死し、
高野長英は捕まらない為に姿をくらまします。
シーボルト事件が忘れられてきた為、
1830年に高野長英は江戸に移って
蘭学を勉強しつつ、町医者となります。
シーボルトの下で得た知識や研究内容、
オランダ本の翻訳や、飢饉に備えた
食べ物について、病気に関するものなど
様々なジャンルの本を出版しています。
また、田原藩士(現在の愛知県)の渡辺崋山らと
蘭学者を中心とした研究会も行っています。
高野長英と蛮社の獄
1837年にモリソン号事件が起こります。
これは漂流した日本人を送ってきた
アメリカ商船のモリソン号を、幕府の
「異国船打ち払い令」によって砲撃し、
撃退してしまった事件です。
この事件を知った高野長英は
『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』を書き、
幕府の打ち払い令や鎖国政策を批判します。
1839年、この本をきっかけに
幕府に逮捕されてしまいます。
これを蛮社の獄と呼んでいます。
1844年、6年牢屋に入ったところで
高野長英は、牢屋番にお金を渡して
放火をさせて、脱獄します。
指名手配されましたが、高野長英は
薬品で顔を焼いて人相を変更したのです。
その後、江戸へ戻って医者を開業しますが、
役人にバレてしまい、自宅を囲まれてしまいます。
高野長英の最期
高野長英は
1850年12月3日(嘉永3年10月30日)に
自害します。享年46歳。
高野長英記念館とは?
高野長英記念館は、
郷土である岩手県奥州市にある
高野長英の偉業を顕彰する記念館です。
1971年(昭和46年)に創立されました。
高野長英記念館では、訳書、著書、
手紙や遺品など約200点もの
高野長英に関わる品を展示しています。
特に、高野長英が獄中で書いた
『爪書の詩』や『砲家必読』などの
貴重な史料も所蔵しています。
最後に
高野長英とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
高野長英について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。