谷三十郎(たにさんじゅうろう)は
幕末期(江戸時代後期)の武士、新撰組の七番組長です。
誕生時期:1832年
死亡時期:1866年5月15日
この記事では
谷三十郎ってどんな人だったのか
何をした人だったのかを
なるべくわかりやすく簡単な言葉で解説していきます。
谷三十郎って何をした人?
谷三十郎の誕生日
谷三十郎は
1832年(天保3年)頃に、備中松山(現・岡山県)で
備中松山藩士の旗奉行120石・役料20石の
谷三治郎供行の嫡男として生まれます。
※谷三十郎の具体的な誕生日は不明です。
谷三十郎は幼少期から、
直心(じきしん)一派の師範でもあった父から武術を学びます。
谷家の断絶
1853年に谷三十郎は谷家の家督を相続、
備中松山藩主の板倉勝静(いたくらかつきよ)の
側近(近習役)として仕えます。
しかし1856年に不祥事案によって
谷家は断絶となります。
谷家断絶の不祥事案とは
三十郎もしくは弟の万太郎による
藩主の姫君との密通説や、
家老の奥方との不倫の説などがあります。
断絶後は、弟の万太郎と共に
故郷を逃げ出しあとをくらませて大坂南堀江町にて道場を開きます。
新選組に加盟
時期は不明ですが、
谷三十郎は新選組に加盟します。
この際、谷三十郎の2人の弟である
谷万太郎と谷周平も新選組隊士となります。
谷三十郎は1864年に副長助勤、
その後、八番組長となります。
そして翌年の1865年に
七番隊組長および槍術師範を務めます。
池田屋事件で谷三十郎は
土方歳三の組に属して、
事件後は褒賞として17両を賜っています。
また、谷三十郎は弟の万太郎ら4名と
大坂焼き討ち計画を未然に防ぎます。
大坂の豪商である加賀屋四郎兵衛に対する
献金要請の際の交渉役を務めて
3万1500両もの大金を得ることに成功します。
同じ時期に弟の周平は、
新選組局長の近藤勇の養子となっています。
谷三十郎の最期
谷三十郎は
1866年5月15日(慶応2年4月1日)に
京都東山の祇園社にて亡くなります。
その時の年齢は34歳くらいです。
谷三十郎の墓所は
大阪市北区にある本伝寺にあります。
谷三十郎ってどんな人だった?
新撰組内で嫌われていた?
谷三十郎は、
弟の谷周平を局長である近藤勇の養子に
送り込んだことを自慢していた為、新撰組内で嫌われていたと言われています。
強い隊士がいない
谷三十郎は
1864年に起きた禁門の変で捕らえた
仲田九一郎に「新選組には
見かけほど強い隊士はいないので、いつも自分が先頭に立たされる」と話をしていたそうです。
谷三十郎の死因
谷三十郎の死について新撰組は
次のように会津藩に報告しています。
七番組頭谷三十郎儀、祇園石段下に於て頓死相遂げ候
※頓死=急死のこと。
谷三十郎の死因は、
同じ新撰組の隊士である斎藤一や
攘夷派維新志士による暗殺説や、
過度の飲酒が原因の脳卒中説などがあります。
しかしほとんど記録は残されておらず、詳細は不明となっています。
最後に
谷三十郎ってどんな人だったのか
何をした人だったのかを
なるべくわかりやすく簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。