徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は
江戸幕府最後の将軍です。
そんな徳川慶喜は妻(正室)の他にも
多くの女性を側用人として仕えさせ、
男女の関係をもっていたとされています。
※側用人(そくようにん):江戸幕府の将軍や大名などに仕える人
わかりやすく簡単に説明すると
徳川慶喜は本妻(正室)以外にも
別の妻(側室)と愛人がいたということです。
この記事では
徳川慶喜の妻(奥さん)や愛人について
わかりやすく簡単な言葉で紹介していきます。
徳川慶喜の妻(奥さん)や愛人について
徳川慶喜の妻(正室)は
一条美賀子(いちじょう みかこ)です。
徳川慶喜は、妻(正室)を含めて
以下のような複数の女性と
男女の関係があったとされています。
- 正室:一条美賀子(いちじょうみかこ)
- 側室:一色須賀(いっしきすが)
- 側室:新村信(しんむらのぶ)
- 側室:中根幸(なかねさち)
- 外妾:お芳(およし)
徳川慶喜の妻で特に有名なのが、
側室である新村信と中根幸です。
ちなみに、正室と側室は妻(奥さん)を指しますが
外妾は妻(奥さん)ではなく愛人のような関係を指します。
※妾(めかけ)=持続的な男女関係にある女性(妻ではない)
徳川慶喜の5人の妻達について
以下で簡単に紹介していきます。
正室:一条美賀子【徳川慶喜の妻】
徳川慶喜の妻(正室)である
一条美香子(いちじょうみかこ)は、
1835年9月11日に誕生します。
昭憲皇太后が義妹にあたります。
一条美賀子と徳川慶喜は
あまり仲が良くなかったようで
生まれた子どもも早くに亡くなり、
成人することはなかったそうです。
この徳川慶喜の妻「一条美賀子」は
乳がんを患い、60歳で亡くなります。
側室:一色須賀【徳川慶喜の妻】
一色須賀(いっしきすが)は
1838年5月19日に、旗本である
一色定住の娘として生まれます。
その後、一橋徳川家の奥女中である
杉浦の養女となって徳川慶喜の正室である
一条美賀子の女中となったのちに、
徳川慶喜の側室となったそうです。
一色須賀は92歳まで生きたそうなので、
かなり長生きした徳川慶喜の妻(奥さん)です。
側室:新村信【徳川慶喜の妻】
徳川慶喜の妻(側室)である新村信(しんむらのぶ)は
1852年頃に旗本である松井勘十郎もしくは
松平政隆の娘として誕生したと言われています。
その後、旗本の荒井省吾の養女となった後で
さらに小姓頭取の新村猛雄の養女となります。
この新村信は、徳川慶喜との間に
5男5女の子どもをもうけています。
徳川慶喜の妻(側室)「新村信」は
1905年2月8日に亡くなります。
側室:中根幸【徳川慶喜の妻】
徳川慶喜の妻(側室)である
中根幸(なかねさち)は、1851年頃に
旗本である中根芳三郎の娘として生まれ
後に旗本の成田新十郎の養女となっています。
中根幸は徳川慶喜との間に
5男6女の子どもをもうけます。
徳川慶喜の妻「中根幸」は
1915年12月29日に亡くなっています。
外妾:お芳【徳川慶喜の愛人】
お芳(およし)は、生没年不詳で
徳川慶喜が自宅以外に住まわせていた妾です。
※妾(めかけ)=持続的な男女関係にある女性(妻ではない)
江戸の町火消である新門辰五郎の娘で
お芳が徳川慶喜の妾となったことで、
1864年に禁裏御守衛総督に任じられます。
このお芳は、1868年に
徳川慶喜と共に大坂城を脱出して、
開陽丸に乗り込み慶喜一行と江戸へ帰ったとされています。
徳川慶喜が特に気に入っていた女性は誰か?
徳川慶喜は、妻たちの中でも
新村信と中根幸の2人を
とても気に入っていたとされています。
この2人は明治維新の後も、
徳川慶喜の奥さん(側室)として
ともに多くの時間を過ごしたため、
別の女性たちは暇をしていたとか。
さらに、東京都にある徳川慶喜の墓の後ろには
新村信と中根幸の墓が並んで建てられています。
最後に
この記事では
徳川慶喜の妻(奥さん)や愛人について
なるべく簡単な言葉で、わかりやすく解説しました。