徳川慶喜の死因とは?どんな最後だった?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】

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覚悟を決めた侍
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結論からいいますと
徳川慶喜の死因は病死です。

「風邪」や「急性肺炎」が死因となり
その最期(最後)を迎えたとされています。

  • 徳川慶喜の誕生日:1837年10月28日
  • 徳川慶喜の命日:1913年11月22日

※徳川慶喜の最期(最後)の年齢は76歳

徳川慶喜の最期(最後)の年齢は76歳と高齢なので、「徳川慶喜の死因は暗殺ではなく病死」というのは信憑性が高そうです💡

柴犬

 

 

徳川慶喜はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】

徳川慶喜 (幕末維新の個性)

 

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)とは
江戸時代から大正時代までを生きた
江戸幕府の第15代征夷大将軍です。

  • 徳川慶喜の誕生日:1837年10月28日
  • 徳川慶喜の命日:1913年11月22日

※徳川慶喜の最期の年齢は76歳

 

徳川慶喜は大政奉還を行い、
江戸幕府最期の将軍となりました。

徳川慶喜はどんな人なのか
何をした人だったのか?など
徳川慶喜の生涯(最初から最期まで)を
簡単にわかりやすく紹介していきます。

徳川慶喜の死因考察にぜひお役立てください💡

柴犬

徳川慶喜の誕生日

徳川慶喜は1837年10月28日(天保8年9月29日)に、江戸にある水戸藩主邸にて第9代水戸藩主の徳川斉昭七男として生まれます。

 

父が尊敬していた2代水戸藩主の
徳川光圀に倣って徳川慶喜は、幼い頃に
水戸(現・茨城県)戻され教育を受けます。

徳川慶喜は幼い頃から
とても賢く注目されていました。

11歳ころ、徳川慶喜は、
1847年に老中の阿部正弘の口添えで
同じ徳川家の一族である一橋家を相続します。

 

徳川慶喜と井伊直弼

 

12代将軍の徳川家慶が病死し、
跡を継いだ13代将軍の徳川家定は病弱で
男子を儲ける見込みがなかったことから
将軍継嗣問題が浮上してきます。

この将軍継嗣問題に
徳川慶喜は巻き込まれます。

徳川慶喜を推す父の斉昭や阿部正弘、
薩摩藩主の島津斉彬一橋派
紀州藩の徳川慶福を推す彦根藩主の
井伊直弼や本寿院率いる大奥の南紀派が対立。

 

1858年に大老となった井伊直弼によって
14代将軍は徳川慶福(家茂)となるのです。

 

同年、朝廷の許可なく井伊直弼が
日米修好通商条約を結んだことに徳川慶喜らは
問い詰めますが、謹慎処分となります(安政の大獄)。

1860年、桜田門外の変
井伊直弼が殺されると、徳川慶喜は謹慎を解かれています。

 

徳川慶喜と禁門の変

1862年に徳川慶喜は将軍後見職に
任命され、京都守護職の設置や
参勤交代の緩和などを行います(文久の改革)

また1864年に起きた禁門の変では
徳川慶喜が幕府軍を指揮して、長州藩(現・山口県)に勝利します。

 

徳川慶喜は江戸幕府最期の将軍

1866年、14代将軍の徳川家茂が亡くなり
徳川慶喜が江戸幕府最期の将軍となります。

しかし、その時の幕府の権力はすでに
失墜しており、徳川慶喜は茨の道を歩みます。

 

薩摩藩長州藩薩長同盟を結び、
第二次長州征伐は幕府軍が敗れます。

 

徳川慶喜は1867年10月14日に
京都の二条城で大政奉還を行います。

 

政権返上を明治天皇に申し上げて
翌日におゆるしをもらったのです。

 

事実上260年続いた江戸幕府は終わりました。

 

しかし、実はこの大政奉還
徳川慶喜の打開策でもあったのです。

 

当時の朝廷に行政能力が無いと考えた徳川慶喜は、
政権を手放しても諸侯会議に参加できれば
まだ勢力や兵力のある徳川家の主権は
存続できるという狙いがあったのです。

しかし、大久保利通岩倉具視らが
王政復古の大号令を発した為に
慶喜は排除、新政府が樹立されてしまいます。

 

その後鳥羽・伏見の戦いで完敗し、
徳川慶喜は江戸城を明け渡し、静岡に移住します。

 

 

徳川慶喜の最期(死因)

徳川慶喜の最期(最後)の日は
大正時代の1913年11月22日。

急性肺炎を併発した感冒により
徳川慶喜はこの世を去りました。享年76歳。
※感冒(かんぼう):現在でいう風邪のこと

徳川慶喜の死因は病死です。

「風邪」や「急性肺炎」が死因となり
その最期(最後)を迎えたとされています。

  • 徳川慶喜の誕生日:1837年10月28日
  • 徳川慶喜の命日:1913年11月22日

※徳川慶喜の最期(最後)の年齢は76歳

徳川慶喜の最期(最後)の年齢は76歳と高齢なので、「徳川慶喜の死因は暗殺ではなく病死」というのは信憑性が高そうです💡

柴犬

 

 

徳川慶喜の妻(奥さん)の名前や人数など

女聞き書き 徳川慶喜残照 (朝日文庫)

 

徳川慶喜には、
5人の妻(奥さん)がいました。

徳川慶喜の妻(奥さん)
  1. 正室:一条美賀子(いちじょうみかこ)
  2. 側室:一色須賀(いっしきすが)
  3. 側室:新村信(しんむらのぶ)
  4. 側室:中根幸(なかねさち)
  5. 外妾:お芳(およし)

 

徳川慶喜の妻で特に有名なのが、
側室である新村信中根幸です。

 

徳川慶喜の子孫(子供や孫たち)について

孤高の将軍 徳川慶喜 水戸の子・有栖川宮の孫に生まれて

 

徳川慶喜の妻は5人ですが
その中で子孫を残した女性として
新村信と中根幸が有名です。

新村信と徳川慶喜の子ども
  • 長女:鏡子
  • 三女:鉄子
  • 五男:仲博
  • 九女:経子
  • 七男:慶久
  • 十一女:英子
  • 十男:精
中根幸と徳川慶喜の子ども
  • 四男:厚
  • 四女:筆子
  • 七女:浪子
  • 八女:国子
  • 十女:糸子
  • 九男:誠

 

 

 

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