屋島の戦い(やしまのたたかい)は
平安時代末期に起こった戦いです。
屋島の戦いとは何か?
どのような戦いだったのか?などなど
屋島の戦いについて
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
屋島の戦いとは?
屋島の戦いとは
寿永4年2月19日(1185年3月22日)に
讃岐屋島(現在の香川県高松市内)にて
行われた源氏と平氏の戦いです。
一ノ谷の戦いで敗れた平氏は、
水軍を利用して勢いを盛り返そうとします。
しかし源義経に背後から急に襲われ
平家の内海制圧は破れて長門の壇ノ浦に逃れます。
壇ノ浦の戦いこそが、
有名な平家最後の戦いです。
また那須与一(なすのよいち)の扇を射る話や
源義経の弓流しの話が生まれたのです。
現在もこの香川県高松市周辺には
安徳天皇社をはじめ、源平合戦ゆかりの地が点在しています。
那須与一とは?
平家は壇ノ浦沖へ小舟で逃げ出します。
しかし、想像していたよりも
源氏の兵力が少ないことが分かり、
海上から弓矢で攻撃をし始めます。
激しい戦いが続きましたが、
次第に膠着状態となります。
そこで平家は、小舟に設置した
扇の的を射ってみろと挑発したそうです。
はじめは畠山重忠が選ばれますが、
彼は辞退をして那須与一の兄である為隆を推薦します。
しかし、那須為隆も傷を負っていると
辞退して弟の那須与一を推薦します。
あまりの大役に那須与一も一度は
辞退をしたそうですが、主君の命令を
断ることはできず、的を射る役目を引き受けます。
平氏、源氏の両軍が見守る中、
扇が掲げられた船に向かって、那須与一は
沖合で馬にまたがり弓を構えて矢を放ち
見事に的中させることに成功したのです。
近年の研究では、那須与一から
扇の的までは約70メートル程はあったと推測されています。
さらに海の上で扇の的がある船も揺れる中で、
見事に当てることができたのは、よほど
腕が良かったということが分かります。
こうしてこの話は、現在まで語り継がれることとなったのです。
屋島の戦いの経緯
1184年2月、一ノ谷の戦いで敗れた
平家は、都から逃げ出します。
都から逃れた平家は、放浪の末
屋島に拠点を置くことにしました。
安徳天皇と三種の神器を奉じた
平家は、この地で再起を図ったのです。
源義経は、そんな平家を追討するために
平家の拠点である屋島を目指して、阿波へ上陸。
源義経は、その地の武士を味方につけて
平氏の軍勢の状況を聞き出します。
そして平家軍において四国での
大きな戦力である田口成直の軍勢が
伊予へ出兵していることを聴きます。
源義経は、今ならば屋島が手薄で
平家を倒すチャンスであると考えます。
このとき屋島に集まっていた3000騎の
平家軍に対して、源氏軍は約150騎程度。
圧倒的不利な状況の中で源義経は、
道中の民家に火を放って進み、大軍に
見せかけて、屋島に布陣する平家を襲ったのです。
最後に
屋島の戦いとは何か?
どのような戦いだったのか?などなど
屋島の戦いについて
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。