壬申の乱とは?決戦の場所はどこ?【簡単にわかりやすく解説】

 

壬申の乱(じんしんのらん)飛鳥時代に起こった日本での内乱です。

古代日本史上最大の内乱と言われています。

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目次

壬申の乱とは?

壬申の乱を読み解く (歴史文化ライブラリー)

壬申の乱(じんしんのらん)とは
672年7月24日(天武天皇元年6月24日)から
672年8月21日(天武天皇元年7月23日)まで
約1か月間続いた古代日本最大の内乱のことです。

この壬申の乱の大きな特徴は
天智天皇の弟と、子供が争ったという点です。

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どういうことかというと
天智天皇のである
大海人皇子(おおあまのおうじ)
天智天皇の子どもである
大友皇子(おおとものおうじ)が、
皇位継承をめぐって争ったということです。

大海人皇子(天智天皇の弟)
VS
大友皇子(天智天皇の子ども)

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内乱の結果、弟側が勝利。

敗北をした大友皇子は自殺します。

 

その翌年に、
勝利した大海人皇子が
天武天皇となりました。

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壬申の乱の決戦の場所はどこ?

壬申の乱を歩く (歴史の旅)

壬申の乱の決戦の場所は
1つだけではなく複数ありますが
だいたいが近畿地方(滋賀県周辺)で行われました。

主な決戦場所は
近江(現在の滋賀県)などで、
最大の決戦場所となったのは、
現在の滋賀県大津市にある
瀬田唐橋(せたからはし)です。

この壬申の乱の最大の決戦は
瀬田唐橋の決戦と言われています。

 

壬申の乱と関係がある場所まとめ

日本史の叛逆者 私説・壬申の乱 (角川文庫)

  • 野上行宮(のがみあんぐう)
  • 桃配山(ももくばりやま)
  • 黒血川

野上行宮(のがみあんぐう)

大海人皇子が壬申の乱の時期に、
本拠地を置いた場所がこの野上行宮。

壬申の乱の歴史が記録されている日本書紀にも、この場所の記載が残っています。

■野上行宮の場所

  • 住所:関ケ原町大字野上1231-2
  • アクセス:JR関ケ原駅よりR21を東へ車で約10分

 

桃配山(ももくばりやま)

桃配山からの硬い視線

桃配山は、岐阜県不破郡関ケ原町にある山です。

じつは、桃配山の名前の由来は
大海人皇子が壬申の乱のときに
「自分の兵を励ますために桃を配った」
という逸話から付けられたと考えられています。

豆知識ですが、この桃配山は
関ケ原の戦いのときに
徳川家康が利用した山でもあります。

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黒血川

 

この黒血川の名前の由来も
壬申の乱と関係しています。

なんと、壬申の乱のときに流れた血で、
川底の岩石が黒く染まったことから
「黒血川」と名付けられたそうです。

「黒血川」は、元々山中川といわれていましたが、壬申の乱で両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから「黒血川」の名が付いたといわれています。

引用:関ヶ原観光Web「黒血川

 

壬申の乱が起こった経緯

天武天皇の企て 壬申の乱で解く日本書紀 (角川選書)

  • 天智天皇と大海人皇子
  • 皇位継承問題
  • 吉野へ逃れる大海人皇子
  • 天智天皇が死亡後に、大海人皇子が戦いを開始

天智天皇と大海人皇子【壬申の乱が起こった経緯】

大海人皇子秘話 (真弓常忠著作選集―小説篇)

645年に大化の改新を成功させた
中大兄皇子は668年に即位して、天智天皇となります。

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天智天皇(中大兄皇子)は
班田収授法の政策を打ち出すなどして
天皇による公地公民を実現します。

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そして実弟である大海人皇子が、
天智天皇の補佐をしていました。

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皇位継承問題【壬申の乱が起こった経緯】

天皇陵と近代: 地域の中の大友皇子伝説 (ブックレット“書物をひらく”)

当時の皇位継承については
親子よりも兄弟が優先されていました。

そのため、次の天皇には
天智天皇(中大兄皇子)の弟である
大海人皇子が選ばれるのが普通の流れです。

ところが、天智天皇は寵愛していた
我が子の大友皇子への皇位継承を望みます。

そして671年、
天智天皇は大友皇子を太政大臣に任じて
次の天皇は大友皇子であると世に知らしめます。

 

吉野へ逃れる大海人皇子【壬申の乱が起こった経緯】

吉野路案内記 (1984年)

 

この際、大海人皇子
出家して吉野へ逃れています。

その理由については諸説ありますが、
天智天皇は出方によっては大海人皇子を
殺害しようと考えており、大海人皇子は
身の危険を察知したからと考えられています。

また出家することで、皇位継承への
執着の疑いを向けさせないねらいもあったとか。

 

大海人皇子が逃れた吉野というのは
現在の奈良県吉野郡吉野町です。

参考:吉野町公式HP「壬申の乱と吉野」

 

 

天智天皇が死亡後に、大海人皇子が戦いを開始【壬申の乱が起こった経緯】

週刊再現日本史 原始・奈良⑦ 672~709 大海人皇子、吉野を脱出 「壬申の乱」勃発!

そして672年1月に天智天皇が亡くなると、
大海人皇子は672年7月24日
(天武天皇元年6月24日)に挙兵して
吉野を離れて不破(ふわ)へ向かい、
壬申の乱が日本の歴史に名を刻むこととなります。

 

壬申の乱で大友皇子が負けた理由

日本書紀によると
大友皇子は不破道(ふわのみち)
閉塞(へいそく)を命じています。
※閉塞(へいそく):とじふさぐこと

不破道とは現在の不破関と考えられていて
東国と都を結ぶ重要なルートでした。
※不破関(ふわのせき)の場所:現在の岐阜県不破郡関ケ原町

 

この不破道を防いだことで
大友皇子は東国での徴兵ができず、
壬申の乱の敗戦に大きく影響したと考えられています。

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最後に

本当は怖ろしい万葉集 壬申の乱編 (祥伝社黄金文庫)

壬申の乱とは何か?
決戦の場所はどこだったのか?などなど
壬申の乱について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

 

飛鳥時代に起きた「壬申の乱」の特徴は
天皇の子どもと、天皇のの戦いという点。

ちなみに、応仁の乱も
似たような構造をしています。

応仁の乱とは、
室町時代に起きた戦いで
8代将軍の「足利義政」の子どもの争いです。

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