光仁天皇(こうにんてんのう)とは
奈良時代の第49代天皇です。
誕生時期:709年11月18日
死亡時期:782年1月11日
約100年続いた天武系の皇位が
光仁天皇即位によって、
天智の系統に移りました。
光仁天皇とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
光仁天皇について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
光仁天皇とは?どんな人?
- 光仁天皇の誕生日
- 光仁天皇と藤原仲麻呂の乱
- 光仁天皇と称徳天皇
- 光仁天皇の即位
- 光仁天皇と井上内親王
- 光仁天皇と桓武天皇
- 光仁天皇の最期
光仁天皇の誕生日
光仁天皇(こうにん てんのう)は
709年11月18日(和銅2年10月13日)に
志貴皇子(しきのみこ)と紀橡姫(きのとちひめ)
との子どもとして生まれます。
父の志貴皇子は施基親王とも呼ばれ
息子の白壁王が天皇になったことから
死後、春日宮天皇という尊号が贈られます。
なお、現在の皇室は志貴皇子の子孫となります。
光仁天皇と藤原仲麻呂の乱
光仁天皇は白壁王(しらかべのおおきみ)と呼ばれ、
天智天皇の孫にも関わらず、従四位下に
任ぜられたのが29歳と、皇族にしては
非常に遅いスタートを切ります。
764年、藤原仲麻呂の乱鎮圧に功績を上げて
称徳天皇(孝謙天皇)から期待され、大納言に昇進。
光仁天皇と称徳天皇
770年、称徳天皇が亡くなります。
生涯独身だった称徳天皇に後継者はおらず、
度重なる政変の反乱や暗殺などにより
天武天皇の嫡流にあたる男子皇族が少なくなっていました。
右大臣の吉備真備らによる協議で
次期天皇についての協議が行われます。
そこで藤原式家の始祖である藤原宇合の
息子の藤原百川(ふじわらのももかわ)が、
天智天皇の孫である白壁王(光仁天皇)を推薦したのです。
光仁天皇の即位
770年、白壁王は光仁天皇として即位。
壬申の乱以降、約100年ぶりとなる
天智天皇子孫の天皇即位となります。
それ以後は現在に至るまで
天智系の天皇が継続していきます。
即位した光仁天皇はこの時62歳で、
継体天皇以降では現在の今上天皇を
含めて最高齢とされています。
また光仁天皇の即位と同時期に、吉備真備は大臣を辞職しています。
光仁天皇と井上内親王
光仁天皇は井上内親王を皇后とし、
その息子である他戸親王を皇太子に立てます。
※皇太子=次期天皇候補の第一順位の人。
しかし、皇后の井上内親王がひそかに
光仁天皇を呪い殺そうとしたという密告が
あった為、皇后、皇太子ともに幽閉します。
2人は同じ日に亡くなったことから、
暗殺されたという説が根強く、これにより
天武天皇の血筋は完全に断たれました。
光仁天皇と桓武天皇
光仁天皇は、皇太子を
山部親王(のちの桓武天皇)に定めます。
光仁天皇は、称徳天皇が寵愛していた
道鏡を下野に左遷し、和気清麻呂らを召還します。
不必要な令外官を停廃し、
軍団と兵士の制を縮小するなど
財政の緊縮に努めて、政治の刷新をします。
この短い期間に、光仁天皇は
奈良時代の行政の歪みを正し、
桓武天皇以降の平安時代の土台を築くのです。
光仁天皇の最期
781年、光仁天皇は
山部親王に譲位します。
そして翌年の
782年1月11日、光仁天皇は亡くなります。享年72歳。
最後に
光仁天皇とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
光仁天皇について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。