建武の新政(けんむのしんせい)とは
鎌倉時代終了後(鎌倉幕府滅亡後)に、
後醍醐天皇によって行われた政策です。
開始時期:1333年
終了時期:1336年2月25日
※建武の新政は別名で
建武の中興(けんむのちゅうこう)と呼ばれます。
室町時代の前半は、
この政策によって大きな混乱が起きます。
建武の新政とは何か
どのような政策だったのか?などなど
建武の新政について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
建武の新政(建武の中興)とは何か?
建武の新政(建武の中興)とは、
1333年(元弘3年/正慶2年)に
後醍醐天皇が打ち出した新政策です。
建武の新政という名前の由来は、
翌年に定められた「建武」という年号です。
後醍醐天皇は、武家による政治を辞めて
公家中心の政治(親政)を目的とします。
かつて天皇政治の理想ともいわれた
醍醐天皇と村上天皇らによる
古代政治を手本にしたとされています。
しかし、その内容は時代錯誤で
武士の不満を招き公家からも支援されず、
足利尊氏の反発により、わずか3年で崩壊しました。
建武の新政(建武の中興)の内容
肝心な建武の新政の内容を紹介します。
- 大内裏(皇居)の造営
- 乾坤通宝(新貨幣)の発行の計画
- 中央組織の整備
- 地方組織の整備
これらについて以下で簡単に解説します。
大内裏(皇居)の造営【建武の新政の内容】
後醍醐天皇は権威を示すために
大内裏(皇居)の造営を計画します。
そのために必要な費用を集めるべく
二十分の一税など新税や
新しい紙幣や貨幣の発行を計画します。
乾坤通宝(新貨幣)の発行の計画【建武の新政の内容】
乾坤通宝(けんこんつうほう)とは、
簡単に説明すると幻の通貨のことです。
建武の新政では
新しい通貨の発行を計画したそうです。
1334年頃に
「乾坤通宝」発行詔書が発行されます。
しかし実は、その通宝が
実在したかは確認されていません。
もしこの宝が発見された場合
かなりの価値がつくそうです。
これは豆知識ですが
「南朝迷路」というミステリー小説に
この乾坤通宝の話が登場します。
中央組織の整備【建武の新政の内容】
建武の新政では、
中央機関の整備が行われます。
- 記録所
- 恩賞方
- 雑訴決断所
- 武者所
『記録所』とは、
国の重要事項を決める最高決定機関です。
『恩賞方』とは、
武士への恩賞(褒美)を取り扱う機関で、
『武者所』は京都の警備をする機関です。
そして『雑訴決断所』では
所領をめぐる事務や裁判を担います。
鎌倉幕府の「引付」での
訴訟を受け継いでいます。
地方組織の整備【建武の新政の内容】
建武の新政では、
地方組織の整備も行われます。
- 国司と守護
- 鎌倉将軍府
- 陸奥将軍府
建武の新政では
国司の方が権限を上として、
全国に国司と守護を設置します。
鎌倉幕府では
『国司』の実態が失われていましたが、
後醍醐天皇は国司を地方支配組織の要としたのです。
他にも鎌倉将軍府として、
後醍醐天皇の息子である成良親王と
足利尊氏の弟の足利直義を派遣します。
陸奥将軍府としては、
後醍醐天皇の息子である義良親王と
北畠親房の長男の北畠顕家を派遣します。
建武の新政が崩壊の理由とは?
1333年に始まった建武の新政は
約3年後の1336年に崩壊します。
なぜ、建武の新政は
わずか3年で崩壊したのでしょうか?
建武の新政が崩壊した理由は
武士から大きな不満が出たからです。
そもそも、鎌倉幕府を倒す際に
足利尊氏ら武家が後醍醐天皇に協力したのは
鎌倉幕府に不満があったから。
後醍醐天皇を支持していたわけではありません。
そして、この建武の新政は
公家を重用し、恩賞も武士よりも
公家の方が多いなどの差が出てしまった。
中央機関の「恩賞方」の
判断が公正ではなかったことも、
多くの武士から反感を買ったとされています。
※恩賞方:武士への恩賞(褒美)を取り扱う機関
そしてこの政策に失望した足利尊氏が
後醍醐天皇から離反し、対立し、
建武の新政は崩壊への道を進むこととなりました。
最後に
この記事では
後醍醐天皇によって行われた政策
「建武の新政」について、
なるべくわかりやすく簡単な言葉で解説しました。
この情報が少しでも
あなたのお役に立てばうれしいです。