長谷川等伯ってどんな人?何をした人?【作品についてもわかりやすく簡単な言葉で解説】
長谷川等伯(はせがわとうはく)とは
幕末期(室町時代後期)から
江戸時代初期までを生きた絵師です。
誕生時期:1539年
死亡時期:1610年3月19日
狩野永徳、海北友松、雲谷等顔らと
並び桃山時代を代表する画人です。
長谷川等伯とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
長谷川等伯の作品や
長谷川等伯について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
目次
長谷川等伯ってどんな人?
長谷川等伯の誕生日
長谷川等伯は1539年(天文8年)に
能登国七尾(現在の石川県)で
戦国大名の畠山氏の下級家臣であった
奥村文之丞宗道の子として生まれます。
※長谷川等伯の具体的な誕生日は不明です。
長谷川等伯は幼い頃に
染物屋を営む長谷川宗清の養子となり、
養父や養祖父から絵の手ほどきをうけます。
長谷川等伯、33歳で京へ
はじめは「長谷川信春」と名乗り
能登国を中心に、自ら信仰していた
日蓮宗関係の仏画を描きます。
しかし、戦乱後の反響で仕事は減り、
画業を続けることが困難となります。
そこで1571年、33歳の長谷川等伯は
新たな活動の場を求めて京へ旅立ちます。
長谷川等伯と金碧画
新たな京の地で、長谷川等伯は
堺の商人や千利休と親交を結びます。
のちに豊臣秀吉に引き立てられ、
狩野永徳らの狩野派と対抗するまでに。
その後も晩年まで多くの絵を描き、
当時流行していた金地極彩色の手法や
大画面構図方式を採り入れ、狩野派以上に
躍動的な金碧装飾画を作りました。
長谷川等伯の最期
長谷川等伯は
1610年3月19日(慶長15年2月24日)に
病死します。享年72歳。
また、故郷である七尾市では
2010年に長谷川等伯没後400年を
記念して、長谷川等伯をモデルとした
マスコットキャラクター”とうはくん”が作られました。
長谷川等伯の作品
ここでは長谷川等伯の
代表的な作品をいくつか紹介します。
- 松林図屏風
- 楓図
これらの作品について
以下で簡単に解説します。
松林図屏風【長谷川等伯の作品】
『松林図屏風』は
国宝にも指定されている、長谷川等伯の
最も有名な代表作品といえます。
この作品は長谷川等伯が、息子の
長谷川久蔵の死を嘆いて描きました。
手前の松は黒々とした濃い墨で荒々しく、
背後の松は淡墨で柔らかく描き、空間的奥行と
遠近感で広がりを感じさせています。
近世日本水墨画の代表作品と高く評価されています。
楓図【長谷川等伯の作品】
『楓図』も国宝であり、
長谷川等伯の有名な作品の一つでもあり、
『松林図屏風』と同時期に描かれました。
豊臣秀吉が、3歳で亡くなった愛児の
鶴松のために建立した京都の祥雲寺の
障壁画として描かれたものです。
泥などで地を作った上に岩絵具で
濃彩を施した金碧画(きんぺきが)の代表作と評価されています。
最後に
この記事では、
長谷川等伯についてや
長谷川等伯の作品についても
なるべくわかりやすく簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。