平治の乱とは?【簡単にわかりやすく解説】

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2人が戦っている様子
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平治物語 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

平治の乱(へいじのらん)とは
平安時代末期に起こった戦争です。

開戦時期:1159年1月

 

この平治の乱ののちに平清盛
太政大臣となり、平氏政権が実現することとなります。

 

この記事では
平治の乱とはどんな戦争だったのか
わかりやすく解説していきます。

 

平治の乱とは何か?

保元・平治の乱と平氏の栄華 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第一巻)

まず、平治の乱を簡潔に説明します。

平治の乱とは1159年(平治元年12月)1月に
藤原通憲平清盛を倒そうとして
源義朝藤原信頼が起こした戦争です。

 

保元の乱からわずか3年ほどの戦争で
保元の乱とも深く関係していることから
「保元・平治の乱」ともよく呼ばれます。

 

次のように分かれて戦います。

【後白河上皇方】
【二条天皇方】

 

これらの対立に関して、
以下で分かりやすく解説します。

後白河上皇と二条天皇

後白河上皇―中世を招いた奇妙な「暗主」 (日本史リブレット人)

保元の乱の後、後白河天皇
藤原通憲と共に政治を行います。

しかし、もともと亡くなった鳥羽法皇が
次の天皇に守仁親王(後の二条天皇)を
指名していました。

後白河天皇は、守仁親王が
成人するまでのつなぎ合わせです。

そう考えた美福門院(藤原得子)は、
交渉の末に二条天皇を即位させます。

美福門院は、亡くなった鳥羽法皇から
広大な荘園を相続していて、
強大な発言権があったのです。

 

また、それだけでは収まらず
美副門院を始めとする二条天皇方の側近は、
後白河上皇による院政も拒もうとしたのです。

 

藤原通憲と藤原信頼

保元・平治の乱 平清盛 勝利への道 (角川ソフィア文庫)

保元の乱が起こった後に、政治の
主導権を握ったのは藤原通憲(信西)でした。

彼の妻が後白河天皇の乳母だった為、
実質天皇の義父のような立場だったのです。

 

保元の乱で敗れた藤原頼長の所領を
もらうなどして、どんどん基盤を固めていきます。

 

こうした通憲の行動に不満を持つ者が、
二条天皇方だけでなく後白河天皇方にも表れます。

その一人が藤原信頼です。

藤原信頼は源義朝と手を組んで、
二条天皇方を擁して戦うこととなります。

 

平清盛と源義朝

源頼朝(1) 平治の乱の巻 (山岡荘八歴史文庫)

保元の乱では平清盛と源義朝は
同じ後白河天皇方で仲間でした。

保元の乱で見事に2人とも勝利。

しかし、その恩恵に差がついたことで
源義朝が不満を感じるようになります。

恩恵なども含めて当時、政治を
牛耳っていたのは藤原通憲(信西)です。

藤原通憲は平家と親密な関係を持って
平家の武力を利用していました。

これに対抗するために藤原信頼は、
源義朝と手を組んで保元の乱を起こすのです。

 

平治の乱の状況説明

保元・平治の乱と平氏の栄華 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第一巻)

1159年12月9日の深夜、
藤原信頼らの軍勢が三条殿を襲撃し
後白河上皇を幽閉します。

藤原通憲は逃げていましたが、
後に捕まり自ら首を突いて自害します。

 

途中までは藤原信頼側が優勢でしたが、
帰郷した平清盛によって状況は一変。

敗れた藤原信頼は斬首、
源義朝は尾張で殺されました。

 

1167年、平清盛は太政大臣となって
平氏は全盛をきわめたのです。

 

 

最後に

週刊ビジュアル日本の合戦 No.39 平清盛と保元・平治の乱

この記事では
平治の乱とはどんな戦争だったのかを
なるべくわかりやすく解説しました。

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

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