源義朝の死因とは?どんな最後だった?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】

WRITER
 
弓をもって変装する男性
この記事を書いている人 - WRITER -

結論からいいますと
源義朝の死因は暗殺です。
※入浴中に襲撃を受けて死亡

  • 源義朝の誕生時期:1123年
  • 源義朝の命日:1160年2月11日

※源義朝の最後の年齢は37歳

 

源義朝は仲間である家臣たちに裏切られて
入浴中に殺害されたと平治物語に伝わります。

  • 源義朝を暗殺した犯人:長田忠致ら
  • 源義朝を暗殺した理由:恩賞目当て

 

 

源義朝はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】

清盛がもっとも恐れた男 源義朝

 

源義朝(みなもとのよしとも)
平安時代末期の河内源治の武将です。

  • 源義朝の誕生時期:1123年
  • 源義朝の命日:1160年2月11日

※源義朝の最後の年齢は37歳

 

保元の乱では平清盛とともに
源氏の一族を倒しました。

 

源義朝とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
源義朝の生涯について
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。

源義朝の死因考察に役立つ情報があるかと思います💡

柴犬

源義朝の誕生日

源義朝は1123年に
源為義(みなもとのためよし)の長男として生まれます。

 

母親は白河院の近臣で
淡路守の藤原忠清の娘です。

源義朝の具体的な誕生日などは分かっていません。

 

源義朝は坂東に育ち
「上総曹司」と称されます。

 

源義朝、京での躍進

1144年の相模躍進国大庭御厨押領事件や
1143年から1145年にかけての
下総国相馬御厨の現地支配権紛争への
介入によって、大庭の千葉氏を服属させます。

 

そして1147年、熱田大宮司の娘である
由良御前との間に、源頼朝が誕生します。

 

都から東国へ下向した源義朝は
在地豪族を組織して勢力を伸ばし、
再び都へ戻り下野守に任じられます。

河内源氏の受領就任は
源義親以来50年ぶりの快挙でした。

しかし、この抜擢は鳥羽院との結びつきを意味し、摂関家を背景とする源義朝の父「源為義」らと対立することになります。

 

源義朝と保元の乱

保元・平治の乱 平清盛 勝利への道 (角川ソフィア文庫)

 

1156年の保元の乱では
源義朝は後白河天皇の陣営、
源義朝の父「源為義」や弟たちは
崇徳上皇の陣営につき、親弟と対立します。

そしてこの戦いで、
平清盛とともに勝利を収めます。

 

この戦いの後に対立した父の為義らの助命を訴えましたが許されず、源義朝の手で親・弟らを処刑したと伝えられます。

 

源義朝はこの戦の恩賞として左馬頭に任じられますが、平清盛よりも低い官位であったことに不満を持っていたといわれています。

 

 

源義朝の子供「源義経」が誕生

源義経 (伝記文庫)

 

1159年、源義朝の子供が誕生します。
その子供が、源義経(みなもとのよしつね)です。

 

また、母は常盤御前なので
源義経源頼朝は、異母兄弟の関係にあたります。

 

 

源義朝と平治の乱

源頼朝(1) 平治の乱の巻 (山岡荘八歴史文庫)

 

後白河院などへの不満が高まり、
1160年、平治の乱が起こります。

 

源義朝は源光保・源季実・源重成らと共に
藤原頼朝と組んで後白河院の
信任厚い信西(藤原通憲)を襲撃します。

 

しかし帰京した清盛によって
状況は一変、義朝・信頼らは兵力の差によって敗北します。

 

源義朝の最期

その後、源信頼を見捨て
息子や家臣などを伴い東国で
勢力挽回を図るべく東海道を下ります。

しかし度重なる落ち武者への戦闘で
何人も深手を負い命を落とします。

 

源義朝は馬も失い、裸足で
尾張国野間(現在の愛知)にたどり着き、
家来であった長田忠致と景致のもとに身を寄せます。

しかし恩賞目当ての長田に裏切られ、
入浴中に襲撃を受けて殺されました。

1160年2月11日。享年37歳でした。

 

 

この記事を書いている人 - WRITER -

Copyright© でも、日本が好きだ。 , 2022 All Rights Reserved.