平城京(へいじょうきょう)は
奈良時代の日本の都城です。
「へいぜいきょう」とも読みますが
「へいじょうきょう」が一般的です。
平城京とは何か?
どんな都だったのか?などなど
平城京について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
目次
平城京とは?
平城京とは、奈良時代の710(和銅3)年3月10日に元明天皇が藤原京から移した都です。
- 平城京はいつからいつまで続いた?
- 平城京の場所はどこ?
平城京はいつからいつまで続いた?【平城京の期間】
平城京の期間は
710年から784年までの74年間です。
桓武天皇が784(延暦3)年に
山城長岡京に移すまで続きました。
平城京の場所はどこ?
平城京は、現在の奈良市市街から
南西方向に位置していたようです。
当時、日本を治めていた元明天皇が
律令制に基づいた政治を行う中心地として
藤原京から平城京に遷都し、
新しい大規模な都を造ったとされています。
現在でも、平城宮跡を観光することが可能です。
参考:奈良県観光公式サイト
平城京はどんな都だった?
平城京はどんな都だったのか?
平城京の都の造りや人口など
平城京について以下で解説していきます。
- 中国様式の平城京
- 平城京の人口について
- 平城京の中心「平城宮」
中国様式の平城京【平城京のモデルとなった場所】
平城京は、当時最も文化が
進んでいたとされる唐(中国)の
長安(ちょうあん)という都がモデルです。
そのため、平城京は
本格的な中国様式の都となります。
南北9条(約4.8㎞)に東西8坊(約4.3㎞)の
面積を持ち、南北・東西を大路・小路によって
碁盤の目のように整然となっていて
全域72坊に区画設定されています。
中央北域には大内裏をおき、
大内裏から南に走る朱雀大路(すざくおおじ)によって
東側は左京、西側は右京に分けられます。
左京には現在の奈良市街に相当する部分が
外京(げきょう)として付属します。
平城京の人口について
この大きな都「平城京」には
およそ10万人以上の人が
暮らしていたと考えられています。
これらの一部の遺跡は、
1954年頃から発掘が行われています。
ちなみに平城京は、
平安時代になるとまもなく荒廃して
外京のみが東大寺、興福寺の門前町として残りました。
平城京の中心「平城宮」
平城京の中心は
「平城宮」と呼ばれる場所です。
平城宮には、政治や儀式の場である
大極殿・朝堂院、天皇が生活する内裏、
宴会を行う庭園などの、都を治める
官公庁が集まっていました。
この平城宮に入ることができたのは、
皇族や貴族、役人など限られた人だけだったそうです。
なぜ聖武天皇は、平城京から離れようとしたのか?
74年続いたとされる平城京ですが
じつは、日本の都は一時的に
別の場所に移されている期間がありました。
当時の天皇「聖武天皇」によって
恭仁京や難波京などへ遷都されていたのです。
なぜ聖武天皇は、日本の都を
別の場所に移す必要があったのか?
結論からいうと、
災いから日本を守ろうとしたためです。
この聖武天皇が国を治めていた時代は、
日本でたくさんの災害が起こっていました。
地震による自然災害だけでなく、
伝染病も流行し、飢饉なども発生。
聖武天皇は、災いが起こるたびに
都を移して災いから逃れようとしたのです。
しかし何度も都を移すたびに
日本の財政的なことが厳しくなり
人々の生活はますます苦しくなります。
最終的には反対派が増えてしまい、
聖武天皇は都を平城京に戻す決断をしたそうです。
最後に
平城京とは何か?
どんな都だったのか?などなど
平城京について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。