結論からいいますと
平賀源内の死因は病死です。
※病名:破傷風(悪質な細菌が原因で発症する感染症で、発症すると死亡する確率がかなり高い病気)
- 平賀源内の誕生時期:1729年
- 平賀源内の命日:1780年1月24日
※平賀源内の最期の年齢は51歳
平賀源内は投獄中に死亡しました。
平賀源内が過ごした最後の場所は
伝馬町牢屋敷という牢獄の中です。
※伝馬町牢屋敷:江戸時代に囚人などを収容した施設。現在はその一部が十思公園(東京都中央区日本橋小伝馬町にある公園)になっている。
平賀源内はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
平賀源内(ひらがげんない)とは
江戸時代中期を生きた本草学者、戯作者です。
- 平賀源内の誕生時期:1729年
- 平賀源内の命日:1780年1月24日
※平賀源内の最期の年齢は51歳
平賀源内はどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
平賀源内の生涯について
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
※平賀源内の死因考察に役立つ情報も盛りだくさんです💡
平賀源内の誕生日
平賀源内は1728年(享保13年)に
讃岐国(現在の香川県)で高松藩の足軽身分である
白石茂左衛門の三男として誕生します。
※平賀源内の具体的な誕生日は不明です。
白石家の先祖は、戦国時代の
信濃国佐久の平賀城主である
平賀玄信(ひらがげんしん)とされています。
平賀源内と本草学
平賀源内は、幼少期の頃に
掛軸に細工をして酒を注ぐ徳利(とっくり)を置くと
掛軸の天神様が赤くなるという仕掛けをした
”お神酒天神”を作ったと言われています。
その評判がもとで平賀源内は
13歳から本草学や儒学なども学んだり
俳諧(俳句の前身にあたる連歌)もたしなみます。
※本草学=中国古来の植物を中心とする薬物学。
江戸時代には博物学、物産学に発展していた。
平賀源内の長崎へ留学
1748年に父が亡くなった為、
平賀源内は家督を相続しますが
留学後には妹に婿養子を迎えさせ
その家督を放棄しています。
留学先は長崎で、1年間本草学、オランダ語、医学、油絵などを学びます。
27歳のときに平賀源内は、
高松藩の重臣からの要請で
磁針器(方位磁石)の製作をしています。
平賀源内の発明品
1756年に平賀源内は江戸へ出て
本草学者と儒学者にそれぞれ弟子入りします。
さらに2度目の長崎遊学では
鉱山の採掘や精錬の技術を学び、
ヨーロッパ製の歩数計を改良して
量程計(万歩計)を作ります。
1759年には高松藩の家臣に登用されますが、
藩の許可を得ないと国内外の行き来が
できないことに不便を感じ、脱藩します。
このとき平賀源内は高松藩から、
他藩で役人などになることを禁止する
”仕官御構(しかんおかまい)”に処されます。
平賀源内は、自らを”天竺浪人”と名乗り
以下のような様々な事業に手を出します。
- 鉱山の開発
- 木炭の運送事業
- 羊を利用した毛織物生産
- 輸出用の陶器製作
- 珍石、奇石の仲買
この頃には平賀源内の名は知れており、
杉田玄白や中川淳庵らとも交流しています。
平賀源内と田沼意次
平賀源内は物産会などもたびたび行い、
鉱山開発などでも名声を得ていて、
当時の老中だった田沼意次にも気に入られていたようです。
新事業や物産展などは、田沼意次に
お金の支援をしてもらっていたようです。
そして幕府の命として、平賀源内は
水平を出すための道具である平線儀や
防火用の火浣布(かかんぷ)などの開発もします。
平賀源内とエレキテル
また、平賀源内はエレキテルを作ったことでも有名です。
しかし実は、もともとエレキテルは
オランダで医療器具として用いられていて、
平賀源内は壊れたエレキテルの復元を行ったのです。
平賀源内の大工殺傷事件
1779年、平賀源内は
大名屋敷の修理を請け負います。
ある日酔っていた為か、なぜか
「大工たちが設計書を盗んだ」と勘違いし、
大工棟梁2人を殺傷してしまいます。
この事件により平賀源内は投獄されます。
平賀源内の最期
そして平賀源内は
1780年1月24日(安永8年12月18日)に
感染症(破傷風)により、獄中死します。享年51歳。
平賀源内の死因は病死です。
※病名:破傷風(悪質な細菌が原因で発症する感染症で、発症すると死亡する確率がかなり高い)
- 平賀源内の誕生時期:1729年
- 平賀源内の命日:1780年1月24日
※平賀源内の最期の年齢は51歳
平賀源内は投獄中に死亡しました。
平賀源内が過ごした最後の場所は
伝馬町牢屋敷という牢獄の中です。※伝馬町牢屋敷:江戸時代に囚人などを収容した施設。現在はその一部が十思公園(東京都中央区日本橋小伝馬町にある公園)になっている。