保科正之ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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完全版 名君 保科正之 (河出文庫)

 

保科正之(ほしなまさゆき)
江戸時代を生きた大名です。

誕生時期:1611年6月17日
死亡時期:1673年2月4日

 

江戸幕府初代将軍の
徳川家康の孫にあたります。

 

保科正之とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
保科正之について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

保科正之ってどんな人?

保科正之―徳川将軍家を支えた会津藩主 (中公文庫)

保科正之の誕生日

保科正之(ほしな まさゆき)は
1611年6月17日(慶長16年5月7日)
江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の四男として生まれます。

 

保科正之と徳川秀忠

保科正之の幼名は幸松で、
母親は静(志津)という女性です。

 

徳川秀忠は静が正室ではなかった為、
正室(お江)への体面上からも、保科正之を
自分の子どもと認めませんでした。

徳川秀忠の子どもであるという事実は、
幕府でも数名しか知らなかったそうです。

 

信濃高遠藩主の保科正之

そのため1617年に、旧武田家家臣の
信濃高遠(長野県)藩主である保科正光が、
保科正之を後継者として養育します。

 

1631年、保科正光が死去します。

保科正之は養父の家督を相続し、
高遠藩3万石の藩主となります。

さらに正四位下左近衛中将兼
肥後守に任ぜられます。

 

保科正之と徳川家光

第3代将軍徳川家光は、保科正之が
異母弟であることを知っていました。

そして実父である徳川秀忠の死後、
徳川家光は正直で有能であった保科正之を
気に入り、非常に可愛がったそうです。

徳川家光の上洛には、
保科正之も同行したそうです。

 

また、幕府から”松平”姓を名乗ることを
勧められましたが、自分を育ててくれた
保科家への恩義を忘れずに、生涯”保科”姓を貫きます。

 

保科正之と会津藩主

1636年には、3万石の高遠藩主から
出羽と山形20万石に、さらに1643年には
会津藩23万石の大名に大出世をします。

 

それ以降、保科正之の子孫である
会津松平家は幕末まで
会津藩主を務めることとなります。

 

1668年に保科正之は、
『会津家訓十五箇条』を定めます。

第一条には次のように書かれています。

会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、
藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない

幕末の藩主である松平容保
この家訓を守って、最後まで幕府を守り、薩摩軍と戦ったのです。

 

保科正之と徳川家綱

1651年、徳川家光が亡くなる際は
枕元に保科正之を呼び寄せて

「肥後よ宗家を頼みおく」

と遺言して、4代将軍の
徳川家綱11歳の後見を任せます。

 

幕政に参与することとなった保科正之は、
これまでのような戦にかける政策を
止めて、民のための政策を行います。

 

民生の安定、社会政策に尽力して
260年間続く江戸幕府の基盤を築いたのです。

 

保科正之の最期

1669年、保科正之は嫡男である
保科正経に家督を譲り、隠居します。

 

晩年の保科正之は、結核を患い、
眼病も発症して失明してしまいます。

そして
1673年2月4日(寛文12年12月18日)
亡くなります。享年61歳。

 

最後に

保科正之 博愛と果断の大名政治家 (中村彰彦 史伝シリーズ2 歴史の裏に真あり)

 

保科正之とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
保科正之について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

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