徳川家光とは?何をした人?わかりやすく解説【京都府「二条城」の築城者】

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江戸人物伝 徳川家光 (コミック版 日本の歴史)

 

徳川家光(とくがわ いえみつ)は
江戸時代前期を生きた、江戸幕府の第3代将軍です。

誕生時期:1604年8月12日
死亡時期:1651年6月8日

 

京都府にある「二条城」の築城者は
この徳川家光だと伝わっています。

 

 

徳川家光とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
徳川家光について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。

 

 

徳川家光とは?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】

徳川家光: 我等は固よりの将軍に候 (ミネルヴァ日本評伝選)

  • 徳川家光の誕生日
  • 徳川家光と徳川忠長の世継ぎ争い
  • 徳川家光、第3代将軍に
  • 徳川家光は徳川幕府の基礎を確立
  • 徳川家光の最期(死因)

徳川家光の誕生日

徳川家光は
1604年8月12日に、
徳川秀忠の次男として
江戸城西の丸に生まれます。

 

徳川家の世継ぎであった徳川秀忠には
長男もいましたが早世していた為、
徳川家光が世子として扱われます。

そのため、
幼名も祖父の徳川家康と同じ
竹千代と名付けられました。

 

徳川家光と徳川忠長の世継ぎ争い

戦国大戦 徳川086 UC徳川忠長

1606年に
徳川家光の弟「徳川忠長」が生まれます。

徳川秀忠は、
この徳川忠長を溺愛したため、
徳川家光との世継ぎ争いにまで発展します。

 

しかし、竹千代廃嫡の危機を感じた
乳母のが当時隠居していた徳川家康に
実情を訴え願い出たため、
徳川家光の世継ぎが決定します。

 

徳川家光、第3代将軍に

徳川家光: 我等は固よりの将軍に候 (ミネルヴァ日本評伝選)

1612年、
徳川家康が亡くなります。
このとき徳川家光12歳。

 

そして徳川家光が20歳となった
1623年、徳川幕府の第3代将軍となります。

しかし、本格的に徳川家光が
政治政策を行うようになったのは
1632年に父の徳川秀忠が亡くなってからとなります。

 

また、徳川家光は22歳のときに
公家出身の鷹司孝子と結婚しますが
あまり仲が良くなかったそうで、
子どもにも恵まれませんでした。

 

徳川家光は徳川幕府の基礎を確立

徳川幕府の実力と統治のしくみ

徳川家光は徳川家の支配を
さらに固めようと以下の政策をします。

  • 武家諸法度の改定
    (参勤交代制)
  • 島原の乱・キリスト教の禁止
  • 鎖国の断行

武家諸法度の改定

近世武家社会と諸法度

武家諸法度とは全国の武士が守る
決まりを定めたもので、徳川家康が
江戸幕府を長く続けるために制定しました。

徳川家光は、この武家諸法度を
さらに厳しいものとします。

参勤交代制」という全国の大名を
一年おきに江戸城に行き来する仕組みを導入します。

 

これは江戸城への行き来によって
大名にお金を遣わせて、幕府に
逆らう力を備え付けさせない狙いがあります。

 

島原の乱・キリスト教の禁止

秘録 島原の乱

島原の乱とは、当時禁止されていた
キリスト教を信仰する者たちが、
天草四郎をリーダーとして起こした反乱です。

 

現在の長崎県は、当時江戸幕府からの
取り立てが非常に厳しかったそうです。

そのため3万人以上の農民たちが
江戸幕府へ反乱を起こします。

幕府はなんとかこの反乱を収めましたが
その原因となったキリスト教を禁止し、
さらに取り締まりを強化しました。

 

 

鎖国の断行

「鎖国」という外交 (全集 日本の歴史 9)

鎖国は、幕府が定めた外国との
貿易や交流を制限する決まりのことです。

日本にいるキリスト教を布教する
ポルトガル人を追放します。

その一方で、中国や朝鮮半島、
オランダとの貿易は長崎につくられた
出島」という場所で続けられました。

 

 

徳川家光の最期(死因)

徳川家光(4) (山岡荘八歴史文庫)

1651年6月8日、
徳川家光は江戸城内で亡くなります。

死因は脳卒中だったと考えられています。

享年48歳。

 

 

 

最後に

徳川家光―三代将軍、葵の御代の治と断 (歴史群像シリーズ (62))

 

徳川家光とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
徳川家光について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

 

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