結論からいいますと
徳川家光の死因は病死です。
徳川家光の死因となった病名は
「脳卒中」だと推測されています。
※脳卒中:脳の病気。脳の血管が詰まったり破れたりすることによって障害を受ける病気
- 徳川家光の誕生日:1604年8月12日
- 徳川家光の命日:1651年6月8日
※徳川家光の最期の年齢は46歳
徳川家光はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
徳川家光(とくがわ いえみつ)は
江戸時代前期を生きた、江戸幕府の第3代将軍です。
- 徳川家光の誕生日:1604年8月12日
- 徳川家光の命日:1651年6月8日
※徳川家光の最期の年齢は46歳
京都府にある「二条城」の築城者は
この徳川家光だと伝わっています。
徳川家光はどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
徳川家光の生涯について
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。
※徳川家光の死因考察にもぜひお役立てください💡
- 徳川家光の誕生日
- 徳川家光と徳川忠長の世継ぎ争い
- 徳川家光、第3代将軍に
- 徳川家光は徳川幕府の基礎を確立
- 徳川家光の最期(死因)
徳川家光の誕生日
徳川家光は
1604年8月12日に、
徳川秀忠の次男として
江戸城西の丸に生まれます。
徳川家の世継ぎの徳川秀忠には
長男もいましたが早世していた為、
徳川家光が世子として扱われます。
そのため、
幼名も祖父の徳川家康と同じ
竹千代と名付けられました。
徳川家光と徳川忠長の世継ぎ争い
1606年に、徳川家光の弟である
「徳川忠長(ただなが)」が生まれます。
徳川秀忠は、この徳川忠長を溺愛したため、
徳川家光との世継ぎ争いにまで発展します。
しかし、竹千代廃嫡の危機を感じた乳母の福が、当時隠居していた徳川家康に実情を訴え願い出たため、徳川家光の世継ぎが決定します。
徳川家光、第3代将軍に
1616年、徳川家康が亡くなります。
このとき徳川家光はまだ12歳。
そして
徳川家光が20歳となった1623年、
徳川幕府の第3代将軍となります。
しかし、本格的に徳川家光が
政治政策を行うようになったのは
1632年に父の徳川秀忠が亡くなってからとなります。
また、徳川家光は22歳のときに
公家出身の鷹司孝子と結婚しますが
あまり仲が良くなかったそうで、
子どもにも恵まれませんでした。
徳川家光は徳川幕府の基礎を確立
徳川家光は徳川家の支配を
さらに固めようと以下の政策をします。
- 武家諸法度の改定
(参勤交代制) - 島原の乱・キリスト教の禁止
- 鎖国の断行
武家諸法度の改定
武家諸法度とは全国の武士が守る
決まりを定めたもので、徳川家康が
江戸幕府を長く続けるために制定しました。
徳川家光は、この武家諸法度を
さらに厳しいものとします。
「参勤交代制」という全国の大名を
一年おきに江戸城に行き来する仕組みを導入します。
これは江戸城への行き来によって
大名にお金を遣わせて、幕府に
逆らう力を備え付けさせない狙いがあります。
島原の乱・キリスト教の禁止
島原の乱とは、当時禁止されていた
キリスト教を信仰する者たちが、
天草四郎をリーダーとして起こした反乱です。
現在の長崎県は、当時江戸幕府からの
取り立てが非常に厳しかったそうです。
そのため3万人以上の農民たちが
江戸幕府へ反乱を起こします。
幕府はなんとかこの反乱を収めましたが
その原因となったキリスト教を禁止し、
さらに取り締まりを強化しました。
鎖国の断行
鎖国は、幕府が定めた外国との
貿易や交流を制限する決まりのことです。
日本にいるキリスト教を布教する
ポルトガル人を追放します。
その一方で、中国や朝鮮半島、
オランダとの貿易は長崎につくられた
「出島」という場所で続けられました。
徳川家光の最期(死因)
1651年6月8日、徳川家光は江戸城内で亡くなります。
死因は脳卒中だったと考えられています。享年46歳。
徳川家光の死因は病死です。
徳川家光の死因となった病名は
「脳卒中」だと推測されています。
※脳卒中:脳の病気。脳の血管が詰まったり破れたりすることによって障害を受ける病気
- 徳川家光の誕生日:1604年8月12日
- 徳川家光の命日:1651年6月8日
※徳川家光の最期の年齢は46歳