岩倉使節団(いわくらしせつだん)とは
アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣された大使節団です。
※時期は、明治時代の初期です
岩倉使節団の目的は何だったのか?
メンバーは誰だったのかご存知ですか?
岩倉使節団とは何か?
ビスマルクとのエピソードなどなど
岩倉使節団について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
岩倉使節団とは?
岩倉使節団とは、
明治時代初期に明治政府が
1871(明治4)年から1873(明治6)年まで
欧米に派遣した日本の使節団のことです。
岩倉具視を正使とし、政府首脳陣や
随員、留学生を含む総勢107名が
1年10か月の間、各国を訪れました。
岩倉使節団の目的と成果
岩倉使節団を派遣した政府の目的は
日本が欧米列強との対等な関係を目指し、
不平等条約の改正をするためでした。
また、欧米各国の制度や文物の調査研究など
海外事情の視察や欧米諸国との交際も
大きな目的だったのです。
しかし、不平等条約の改正の成果は上げられず
もっぱら海外事情の視察を徹底して行います。
もともとは
10か月程度の滞在を予定していましたが
アメリカに約6か月もの長期滞在をし、予定より
1年遅れた1年10か月後に日本へ帰国します。
岩倉使節団とビスマルク
ドイツのビスマルクは、
岩倉使節団に特に大きな影響を与えます。
ビスマルクは、ドイツの前身である
プロセインの首相であり、北ドイツ連邦首相、
ドイツ帝国首相を歴任した人物です。
岩倉使節団は1873年3月にドイツで
ビスマルクから晩餐会に招待されます。
彼は、次のような旨のスピーチをします。
弱い国が国際法を導入したからと言って権利が守られるわけではない。
現実は弱肉強食であり、まずは富国強兵に努め、独立を全うすることが最も大切である。
ビスマルクは、晩餐会で岩倉使節団に
小国の厳しさや国際社会での
現実について教えたそうです。
諸外国は条約改正を断る理由として
日本が国際法を規範にしていないことを
挙げたそうです。
しかしビスマルクは
欧米諸国のいいなりになって
国際法に従って国を変えるよりも
まずは欧米諸国と肩を並べられる軍事力を
持つべきだと、日本の政府首脳陣に熱く語ったと伝わっています。
岩倉使節団のメンバー
岩倉使節団は、政府首脳や
各省の官僚から構成されました。
また、多数の留学生も伴っています。
岩倉使節団となった
著名な人物は次の通りです。
■特命全権大使
岩倉具視
■福使
- 大久保利通
- 木戸孝允(桂小五郎)
- 伊藤博文
- 山口尚芳
■随行
- 村田新八
- 由利公正
また留学生のほとんどは士族ですが
公家出身の者も数人留学しています。
中には津田梅子などの
女子留学生も含まれています。
ほかにも、大久保利通の息子である
大久保利和も随員として同行しました。
最後に
この記事では
岩倉使節団の目的やメンバー、
ビスマルクとのエピソードなどなど
岩倉使節団についてをなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。