江華島事件(こうかとうじけん)は
明治政府が開国後に初めて朝鮮と
国交をめぐって武力衝突した事件です。
日本側の軍艦の名前をとって
「雲揚号事件(うんようごうじけん)」とも呼ばれます。
江華島事件とは何か?
場所はどこだったのか?などなど
江華島事件について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
江華島事件とは?
江華島事件とは
1875(明治8)年9月20日に
日本と朝鮮との間で起きた衝突事件です。
明治政府が日本の軍艦雲揚号(うんようごう)を派遣、
朝鮮の江華島の周りでうろうろするなどして
挑発行為をさせたのです。
そして朝鮮側が江華島にある砲台から砲撃します。
その結果、日本側は正当防衛として
江華島を砲撃して破壊し、近くの島に乗船していた
兵たちを上陸させて栄宋城(えいそうじょう)を占拠します。
この事件をきっかけに朝鮮にとって不平等な
日朝修好条規(江華島条約)を締結しました。
明治維新後まもない明治新政府は
欧米列強にならうやり方で
悲願の朝鮮開国を実現したのです。
江華島事件の場所は?
江華島事件の起こった場所は
事件の名前にもある通り
江華島(カンファド/こうかとう)で起こります。
江華島とは、朝鮮半島の中部、
京畿道(キョンキド/けいきどう)の西岸で
漢江河口に存在する島です。
韓国の首都ソウルから車で
約1時間30分の距離にあり、昔から
諸外国から侵略を受けたこの地は、
その戦いの名残や要塞が多く残っています。
そのため”屋根のない博物館”とも呼ばれています。
江華島事件の経緯
1868年に樹立した明治政府は、
どうしても朝鮮と国交を結び、日本に
有利な条約を結びたいと考えていました。
当時、鎖国政策を行っていた朝鮮は、
断固として拒否をし続けます。
朝鮮の反抗的な態度に、日本国内では
朝鮮に武力を用いて制圧しようという
「征韓論」が高まっていきます。
この征韓論を唱えた人物で有名なのは
西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎などがいます。
一方で、岩倉使節団として
列強な欧米諸国を視察してきた
大久保利通や木戸孝允らは、まずは
日本国内の整備に尽力すべきだと考えて
征韓論に強く反対します。
1873年、征韓論は敗北し
征韓論派の西郷隆盛ら600人が政府を辞職。
この出来事を
明治六年の政変と呼んでいます。
征韓論派の人々が政府を辞めたにも関わらず
明治政府は朝鮮との国交を
あきらめきれずにいました。
そして明治政府は、朝鮮を挑発して
朝鮮から日本を攻撃するように
仕向ける作戦を決行したのです。
最後に
この記事では
江華島事件とは何か?
場所はどこだったのか?などなど
江華島事件についてなるべく
わかりやすく簡単な言葉で解説しました。