板垣退助の死因とは?暗殺?どんな最後だった?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】
結論からいいますと
板垣退助の死因は病死です。
※病名:肺炎
- 板垣退助の誕生時期:1837年5月21日
- 板垣退助の死亡時期:1919年7月16日
※板垣退助の最期(最後)の年齢は82歳
「板垣退助の死因は暗殺でなく病死」ですが
過去に暗殺されそうになったことがあります。
それは1882年4月6日、岐阜での出来事。
自由党の党首の板垣退助が
相原尚褧という男に襲われて
暗殺されそうになった事件です。
無事、板垣退助の暗殺は未遂に終わり
その後も板垣退助は82歳まで生き続け
最期(最後)は病気でこの世を去りました。
目次
板垣退助はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
板垣退助(いたがきたいすけ)は
江戸時代後期から大正時代まで生きた土佐藩士、政治家です。
- 板垣退助の誕生時期:1837年5月21日
- 板垣退助の死亡時期:1919年7月16日
※板垣退助の最期(最後)の年齢は82歳
自由民権運動の指導者として知られ、
第二次世界大戦後の日本の紙幣に
板垣退助の肖像画が用いられました。
板垣退助はどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
板垣退助の生涯について
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
板垣退助の誕生日
板垣退助(いたがき たいすけ)は
1837年5月21日(天保8年4月17日)に
土佐国(現在の高知県)の上級藩士である
乾正成の子(長男)として誕生します。
乾家は、武田信玄の重臣である
板垣信方の子孫であったことから、
板垣退助は後に板垣姓を名乗ります。
幼い頃の板垣退助は、とてもわんぱくであったと言われています。
柴犬
板垣退助と吉田東洋
板垣退助は20歳の頃の喧嘩が原因で、
高知城下への立ち入りを禁じられます。
この時、多くの下級藩士や庶民と触れ合ったことが、のちの自由民権運動へとつながっていきます。
また、吉田東洋の影響を受けて
文武の修行に励むようにもなり、
次第に土佐藩内で頭角を現すことに。
板垣退助と薩土密約
幕末期(江戸時代末期)、
土佐藩の上級藩士としては珍しく
板垣退助は武力倒幕を主張していました。
そのため、中岡慎太郎の仲介で
薩摩藩の武力倒幕派であった小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通らを紹介されます。
そして1867年には
薩土密約(さっとみつやく)を結びます。
その後の戊辰戦争で板垣退助は
倒幕軍のリーダーとして土佐藩兵を率い
新政府軍に勝利をもたらしたのです。
板垣退助と明治政府
1871年、明治新政府のもとで
板垣退助は参議となります。
その後の政策の中で、
板垣退助は西郷隆盛らと共に
征韓論を主張しましたが、
敗れたため明治政府から退きます。
このとき、板垣退助らに同調する軍人や官僚約600人が政府を去り、この出来事は明治六年の政変と呼ばれています。
柴犬
自由民権運動と板垣退助
明治政府を去った板垣退助は、
五箇条の御誓文の「万機公論に決すべし」
という一文をよりどころに、
自由民権運動を開始します。
そして1874年に、自由民権運動の中心となった立志社(りっししゃ)を設立、翌年には全国で初めての政治団体愛国社(あいこくしゃ)を結成します。
柴犬
さらに後藤象二郎や福島種臣らと
民撰議院設立建白書を政府に提出し、
板垣退助は自由民権運動を盛り上げます。
板垣退助と自由党
民選議院設立の運動が実り、
1881年に明治政府から
国会開設が宣言されます。
板垣退助は同年に、フランス国をモデルとした自由党を結成し、自由党総理となります。
日本で初めての政党の誕生です。
板垣退助の暗殺未遂事件と名言
1882年、岐阜県で行っていた演説の最中に
自由党を良く思わない暴漢に襲われます。
※暴漢(ぼうかん):乱暴を働く男
「板垣退助の死因は暗殺でなく病死」ですが
過去に暗殺されそうになったことがあります。それは1882年4月6日、岐阜での出来事。
自由党の党首の板垣退助が
相原尚褧という男に襲われて
暗殺されそうになった事件です。
襲われて暗殺されそうになりますが
板垣退助はその場面で名言を放ちます。
↓
板垣死すとも自由は死せず
自分の理想を信じて生きるこの言葉は、名言として現在まで伝わっています。
板垣退助の暗殺は失敗終わり、一命を取り留めます。
板垣退助の最期
1900年に政界を引退した板垣退助は、社会事業に力を入れ続けます。
その後、板垣退助は1919年7月16日に亡くなります。享年82歳。
板垣退助の死因は病死です。
※病名:肺炎
- 板垣退助の誕生時期:1837年5月21日
- 板垣退助の死亡時期:1919年7月16日
※板垣退助の最期(最後)の年齢は82歳