孝徳天皇ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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孝徳天皇(こうとくてんのう)とは
飛鳥時代を生きた日本の第36代天皇です。

誕生時期:596年4月22日
死亡時期:654年11月24日

 

中大兄皇子(天智天皇)による
大化の改新の際に天皇となります。

 

 

孝徳天皇とはどんな人だったのか
何をした人なのか?などなど
孝徳天皇について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

孝徳天皇ってどんな人?

  • 孝徳天皇の誕生日
  • 孝徳天皇即位
  • 孝徳天皇と改新の詔
  • 孝徳天皇と皇位継承
  • 孝徳天皇の最期

孝徳天皇の誕生日

孝徳天皇(こうとくてんのう)は
596年(推古天皇4年)4月22日
茅渟王(ちぬおう)吉備姫王(きびひめのおう)との
子どもとして生まれたとされています。

 

  • 孝徳天皇の父「茅渟王」:舒明天皇の弟
  • 孝徳天皇の母「吉備姫王」:欽明天皇の孫

孝徳天皇の弟は、皇極天皇(斉明天皇)です。

 

そして孝徳天皇は
天智天皇天武天皇の叔父にあたります。
※叔父(おじ):父母の兄

さらに敏達天皇のひ孫にあたり、
天皇家の濃い血筋をひいていました。

 

孝徳天皇の名は
天万豊日尊(あめよろずとよひのみこと)
はじめは軽皇子(かるのみこ)と称します。

 

孝徳天皇即位

645年、中大兄皇子中臣鎌足らが
乙巳の変(いっしのへん)にて蘇我入鹿を倒します。

 

その時の天皇であった皇極天皇
中大兄皇子に天皇の位を譲ろうとしますが、
中大兄皇子は辞退して軽皇子を薦めます。

 

実は軽皇子は三度辞退していて、
古人大兄皇子を推薦していましたが、
古人大兄皇子も辞退して出家をします。

 

そして645年から
孝徳天皇として即位
して
姪である間人皇女を皇后(妻)とします。

しかし、じつは孝徳天皇は、
即位する前に別の女性と関係をもち
子供を授かっています。
その女性の名は、阿倍小足媛(おたらしひめ)
その子供の名は有間皇子です。

 

 

孝徳天皇と改新の詔

孝徳天皇は中大兄皇子を皇太子とし
646年に改新の詔を発布して
大化の改新の事業を進めます。
※皇太子=皇位継承の第一順位の人。

 

また都を摂津(現在の大阪府)
難波長柄豊碕宮(ながらのとよさきのみや)に遷します。

 

孝徳天皇と皇位継承

孝徳天皇は天皇となりましたが、
実際には
中大兄皇子が権力を握っていました。

 

次第に孝徳天皇は自己主張をはじめて
次期天皇にも、自身の息子である
有間皇子(ありまのみこ)を推すようになります。

さらに
中大兄皇子の提案に対して、
孝徳天皇はその提案を退けたりと
自分の主張をする流れが強くなります。

これらに反発した中大兄皇子は、
孝徳天皇を難波に残して、皇極天皇
間人皇后を連れて飛鳥の宮に戻ってしまいます。

 

多くの臣下たちも、
中大兄皇子に従って
孝徳天皇のもとを去っていきます。

気を落とした孝徳天皇は、
皇位を捨てて離宮で隠れて暮らそうと考えます。

 

孝徳天皇の最期

しかし孝徳天皇は654年11月24日
離宮が完成する前に病気で亡くなります。享年58歳。

孝徳天皇のお墓は
大阪府南河内郡にある大阪磯長陵
(おおさかのしながのみささぎ)にあります。

直径32メートルの円墳で
「山田上ノ山古墳」と呼ばれています。

 

最後に

 

孝徳天皇とはどんな人だったのか
何をした人なのか?などなど
孝徳天皇について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

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