蘇我入鹿ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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蘇我入鹿首塚
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改革者蘇我入鹿 (PHP文芸文庫)

 

蘇我入鹿(そがのいるか)とは
飛鳥時代豪族です。
※豪族(ごうぞく):大きな富や勢力を持つ一族

誕生時期:不明
死亡時期:645年7月10日

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蘇我入鹿は、大化の改新の前夜に、
中大兄皇子中臣鎌足らによって討たれました。

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蘇我入鹿とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
蘇我入鹿について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

蘇我入鹿ってどんな人?

落日の王子―蘇我入鹿

  • 蘇我入鹿の誕生日
  • 蘇我入鹿と大臣
  • 蘇我入鹿と古人大兄皇子
  • 蘇我入鹿と山背大兄皇子
  • 蘇我入鹿と大化の改新の前夜
  • 蘇我入鹿の最期

蘇我入鹿の誕生日

蘇我入鹿は600~610年頃
蘇我蝦夷の子どもとして生まれます。
※蘇我入鹿の具体的な誕生日は不明です。

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蘇我入鹿は蘇我馬子の孫にあたり、
蘇我入鹿の弟には、物部大臣がいます。

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日本書紀」などによれば、
蘇我入鹿は秀才であったと伝わります。

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※豆知識ですが
蘇我入鹿には別名が2つあります。

蘇我入鹿の別名
  • 鞍作(くらつくり)大郎
  • 林大臣

 

蘇我入鹿と大臣

当時の日本では、
蘇我馬子の跡を継いだ
蘇我蝦夷が大臣として権力を握っていました。

  • 蘇我蝦夷:蘇我入鹿のお父さん
  • 蘇我馬子:蘇我入鹿のおじいさん

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642年、皇極天皇の即位に伴って
蘇我蝦夷の息子の蘇我入鹿
国政(日本の政治)をとりまとめ始めます。

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翌年には蘇我蝦夷から独断で
大臣の位を譲られています。

 

 

蘇我入鹿と古人大兄皇子

この頃、皇室の周辺には
天皇中心の国政に改革
しようとする流れが高まります。

 

蘇我入鹿は、このような流れをよみ
自身の従兄弟にあたる古人大兄皇子
(ふるひとのおおえのみこ)
を次期天皇にしようと計画します。

古人大兄皇子が天皇になれば、
思い通りの政治ができると考えたのです。

 

蘇我入鹿と山背大兄皇子

そこで蘇我入鹿は、
もう一人の次期天皇候補であった
山背大兄皇子(やましろのおおえのおう)邪魔となり
排除しようと考えます。

そして大臣を譲られてから1か月後に
蘇我入鹿は山背大兄皇子ら上宮王家の人々を斑鳩寺(法隆寺)で自殺させます。

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こうした蘇我入鹿の勝手なふるまいに、
人々の不満は高まります。

そしてついに中大兄皇子
中臣鎌足らが動き、計画をします。
※中大兄皇子は後に天智天皇となった人物です。

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これらの動きがあの有名な
大化の改新の入り口です。

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蘇我入鹿と大化の改新の前夜

大化の改新の前夜、乙巳の変が起こります。

乙巳の変(いっしのへん)とは、
蘇我入鹿らを滅ぼした事件です。

飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)の大極殿において
石川麻呂が外交文書を読み上げている最中に
中大兄皇子が率先して蘇我入鹿を斬りつけます。

そして蘇我入鹿は、中大兄皇子らが雇った
暗殺者ら(佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田)
よって皇極天皇の御前で殺害されます。

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蘇我入鹿の最期

645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)
蘇我入鹿は乙巳の変によって殺害されます。

一説には、享年35歳と記されています。

 

この翌日に、
父の蘇我蝦夷は抵抗をあきらめて
自邸に火を放ち、自害します。

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その後の蘇我氏陥落のきっかけとなったのです。

 

最後に

聖徳太子は蘇我入鹿である (ワニ文庫)

 

蘇我入鹿とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
蘇我入鹿について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

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