斉明天皇(皇極天皇)の死因とは?白村江の戦いと関係あり?【わかりやすく簡単な言葉で解説】
結論からいいますと
斉明天皇の死因は病気の可能性が高いです。
- 斉明天皇の誕生時期:594年8月7日
- 斉明天皇の死亡時期:661年8月24日
※斉明天皇の最期の年齢:67歳
日本書紀に斉明天皇の死因についての記載があり
筑紫朝倉宮で病死したと記録されているようです。
ただ、日本書紀はかなり昔のものなので
本当の死因は病気ではない可能性もあります。
ちなみに皇極天皇 (こうぎょくてんのう) と
斉明天皇 (さいめいてんのう)は同じ人です。
※性別は女性
- 皇極天皇:日本の第35代天皇
- 斉明天皇:日本の第37代天皇
そうです、両方とも同じ人なのです。
皇極天皇は一度天皇の位を退きますが、
再び即位するという重祚をした女帝です。
※重祚(ちょうそ):一度位を退いた天皇が再び天皇になること。
そのため、皇極天皇という名よりも
斉明天皇の名の方が知られている印象です。
642年2月19日から645年7月12日まで
655年2月14日から661年8月24日まで
目次
斉明天皇(皇極天皇)の死因とは?白村江の戦いと関係がある?
斉明天皇(皇極天皇)の死因については
死亡時期から考察すると色々みえてきます。
- 斉明天皇の誕生時期:594年8月7日
- 斉明天皇の死亡時期:661年8月24日
※斉明天皇の最期の年齢:67歳
まず、斉明天皇の最期の年齢は67歳と高齢なので
死因は病気や寿命であった可能性はやはり高そう。
また、飛鳥時代の661年といえば
白村江の戦いが始まる2年前です。
つまり斉明天皇の死因と白村江の戦いが関係している可能性もあります。
白村江の戦いとは、日本と唐が戦った海戦。
具体的には
倭国(日本)と百済(くだら)の連合軍と
唐(とう)と新羅(しらぎ)の連合軍の戦いです。
※唐(とう):当時の中国
このように、死亡した時期から考察すると
斉明天皇の死因が他殺でもおかしくありません。
ただし、日本書紀によると
百済(くだら)への救援軍と共に斉明天皇は九州へ下り
その途中の筑紫朝倉宮で病死したと記録されているようです。
女帝「斉明天皇(皇極天皇)」ってどんな人?何をした人?【その生涯 (誕生から最期まで)をわかりやすく簡単に 】
皇極天皇(斉明天皇)は飛鳥時代を生きた、日本の第35代天皇、第37代天皇です。
※性別は女性
女帝「斉明天皇(皇極天皇)」は
いったいどんな人だったのか?
何をした人なのか?などなど
斉明天皇(皇極天皇)について
わかりやすく簡単に解説していきます。
斉明天皇(皇極天皇)の死因考察に役立つ情報があるかと思います!
柴犬
- 斉明天皇(皇極天皇)の誕生日
- 斉明天皇(皇極天皇)と高向王
- 斉明天皇(皇極天皇)と舒明天皇
- 斉明天皇(皇極天皇)の政治
- 斉明天皇(皇極天皇)と大化の改新
- 斉明天皇(皇極天皇)の重祚
- 斉明天皇(皇極天皇)の最期
斉明天皇(皇極天皇)の誕生日
■斉明天皇(皇極天皇)の誕生日
⇢594年(推古天皇2年)8月7日
斉明天皇(皇極天皇)は594年(推古天皇2年)8月7日に、茅渟王(ちぬおう)と吉備姫王(きびひめのおおきみ)との間に生まれたとされています。
父の茅渟王は敏達天皇の孫で
母の吉備姫王は欽明天皇の孫。
また、同母弟に孝徳天皇がいました。
斉明天皇(皇極天皇)の名前は
宝女王 (たからのひめみこ) か
宝皇女 (たからのおうじょ) です。
斉明天皇(皇極天皇)と高向王
斉明天皇(皇極天皇)ははじめ、
用明天皇の孫にあたる高向王と
結婚をして漢皇子を産んでいます。
この2人については
現在ほとんど記録が残っていません。
斉明天皇(皇極天皇)と舒明天皇
630年(舒明天皇2年)、斉明天皇(皇極天皇)は舒明天皇の皇后(妻)になり、舒明天皇との間に3人の子どもを産みます。
- 天智天皇(中大兄皇子)
- 間人皇女(孝徳天皇の皇后)
- 天武天皇(大海人兄皇子)
しかし641年、斉明天皇(皇極天皇)の夫「舒明天皇」が亡くなってしまいます。
跡継となる皇子が定まらなかった為、
舒明天皇の皇后(妻)であった宝皇女が
642年に即位して皇極天皇となります。この時49歳。
この時から宝皇女は、皇極天皇とよばれるようになります。
斉明天皇(皇極天皇) の政治
日本書紀によれば、皇極天皇は古の道に従って政治を行ったそうです。
当時、日本では日照りが続きました。
多くの民や蘇我氏が雨ごいをしても
ほとんど雨は降らなかったそうです。
しかし、皇極天皇が天に祈りをささげると、
5日間に続く大雨が降ったと記されています。
また643年、皇極天皇は飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)に場所を移しています。
斉明天皇(皇極天皇)と大化の改新
皇極天皇の在位中は、蘇我蝦夷が大臣として尊重されます。
しかし蘇我蝦夷が病気がちになると、
その子どもの蘇我入鹿が自ら国の政治を行います。
蘇我入鹿は、聖徳太子の子である
山背大兄王(やましろのおおえのおう)を露骨に退けて、
ついには一家を攻め滅ぼしてしまいます。
このことにより、645年に中臣鎌足と
皇極天皇の息子である中大兄皇子が
乙巳の変(いっしのへん)で蘇我入鹿を暗殺。
その翌日に皇極天皇は、実弟である軽皇子(孝徳天皇)に天皇の地位を譲位します。
この孝徳天皇のもと、新しい政策が打ち出されます。
こうしてあの大化の改新が行われていきます。
斉明天皇(皇極天皇)は日本で初めて重祚した天皇
当時政治の権力を握っていた中大兄皇子は、孝徳天皇の死後、ふたたび母である皇極天皇を重祚することに決めます。
※重祚(ちょうそ):一度位を退いた天皇が再び天皇になること。
655年一度位を退いた皇極天皇は、
斉明天皇として再び天皇となります。
皇極天皇は、日本で初めて重祚した天皇です。
政治の実権は引き続き
中大兄皇子がとり行うことになります。
中大兄皇子は両槻宮(ふたつきのみや)や
大運河を建設するなどして
大規模な費用や、労力を搾取します。
日本書紀によると、
当時の農民たちはとても苦しんだそうです。
斉明天皇の最期
斉明天皇は661年8月24日(斉明天皇7年7月24日)に死亡します。享年68歳。
この時期は白村江の戦いの時期でした。
日本書紀によると
百済(くだら)への救援軍と共に
皇極天皇(斉明天皇)は九州へ下り、
その途中の筑紫朝倉宮で病死したと記録されています。