熊本城(くまもとじょう)は
熊本県熊本市中央区に築かれた城です。
熊本城はどんな城だったのか?
熊本城の城主は誰だったのか?
この記事では
熊本城の歴史や城主などについて
分かりやすく解説していきます。
熊本城の歴史について
千葉城・隈本城時代
熊本城のあった地は、
1469~1487年の間に
肥後守護菊池氏の一族である
出田秀信が茶臼山に千葉城を築いたのが始まりです。
その後、1521~1531年に
鹿子木親員に隈本城を築きます。
熊本城と加藤清正
熊本城の歴史は
戦国時代末期にまで遡ります。
1591年頃、
肥後の領主であった加藤清正が
千葉城や隈本城のあった
茶臼山一帯に城郭を築き始めます。
1607年、加藤清正が
熊本城の城主となります。
お城の完成と共に
かつて「隈本」という地名を
「熊本」に改めます。
加藤清正が築いた天守は、
連結式望楼型3重6階地下1階と
かなり大規模なものでした。
熊本城は江戸時代に改修される
その後、加藤清正の子である忠広が改易、
細川忠利が熊本城の城主になります。
それまでの間に何度か地震などで
壊れている部分があった為、細川氏は
徳川幕府に熊本城の改修を願い出ます。
また、1640年頃
「五輪書」の著書であり、
海外でも知られる剣豪・宮本武蔵は
忠利に招かれて、城内の千葉城で
晩年を過ごしたといわれています。
西南戦争と熊本城
その後1877年、西南戦争が起こり、
西郷隆盛が率いる西郷軍によって
熊本城の多くの建造物が焼失します。
しかし、加藤清正が築いた
「武者返し」と呼ばれる曲線の石垣が
功を奏し、西郷隆盛らは一歩も
熊本城に入ることができなかったそうです。
武者返しと呼ばれる石垣は
熊本城の特徴のひとつです。
下はゆるやかで簡単に登れそうですが
上に向かえば向かうほど反り返ります。
武士だけでなく忍者さえも登ることが
できず引き返すことから、武者返しと呼ばれます。
昭和時代に熊本城の一部を再建
昭和時代に入り
熊本市は一般からの寄付も募って
天守、平櫓、塀などを再建し、
本丸一帯を公園として整備しました。
熊本城を国の重要文化財に指定
また、熊本城の13棟の建造物が
国の重要文化財に指定されます。
- 宇土櫓
- 源之進櫓
- 四間櫓
- 十四間櫓
- 七間櫓
- 田子櫓
- 東十八間櫓
- 北十八間櫓
- 五間櫓
- 不開門
- 平櫓
- 監物櫓
- 長塀
これらは西南戦争での焼失も免れ、
築城当時の貴重な建物として
1933年に重要文化財に指定されました。
2016年の熊本地震により、熊本城が倒壊
しかし2016年に起きた
熊本地震によってこれらがすべて損傷し
甚大な被害が出てしまいました。
最後に
熊本城の歴史や城主などについて
なるべく分かりやすく解説しました。
日本のお城の歴史や城主に興味のある方や
熊本城を観光する予定の方などにとって
この記事が少しでも参考になれば幸いです。