結論からいいますと
空海の死因は不明です。
- 空海の誕生日:774年6月15日
- 空海の命日:835年4月22日
※空海の最期の年齢は62歳
空海の死因として病死が濃厚ですが
その真実は明らかになっていません。
空海の死因は病気だったという記述は
伝真済撰の空海僧都伝の中にあります。
死後、「続日本後紀」によると
空海の遺体は火葬されています。
ただし、空海は現在も入定中なので
「死因は無い」という説もあります。
つまり、空海は死んでいないということ。
それが本当ならば、死因は無いといえます。
※入定(にゅうじょう):真言密教の修行のひとつで、精神を統一し、無我の境地に至るために瞑想すること
「空海はまだ生きている」と噂される理由は
この入定という考え方からきているものです。
これこそ「さとりの境地」といえるかもしれませんね。
空海はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
空海(くうかい)は奈良時代から平安時代前期までを生きた僧です。
- 空海の誕生日:774年6月15日
- 空海の命日:835年4月22日
※空海の最期の年齢は62歳
真言宗の開祖として知られ
映画の主人公にもなったりと、
とても有名な仏教僧の一人です。
空海はどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
空海の生涯ついて
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
※空海の死因考察に役立つ情報盛りだくさんです💡
- 空海の誕生日
- 空海の入唐
- 空海と恵果
- 空海と最澄
- 空海と高野山の金剛峰寺
- 空海と綜芸種智院
- 空海の最期
空海の誕生日
空海は774年(宝亀5年)6月15日に
讃岐国多度郡(現在の香川県善通寺市)で
郡司(地方豪族)の佐伯直田公
(さえきのあたいたぎみ)の子として生まれます。
空海の幼名は佐伯真魚(さえきまお)で
18歳で長岡京に出て、大学寮に入ります。
空海は儒学を研究する明経道を専攻、
孔子の歴史書や中国最古の歴史書である
「書経」などを学んだと伝えられています。
しかし大学の授業だけでは飽き足りず、
空海は19歳を過ぎたころから山林での修行に入ります。
空海の入唐(中国へ留学にいく)
804年、31歳になっていた空海は、
長期留学僧の学問僧として唐に渡ります。
遣唐使の一行には、後に
天台宗の開祖となる最澄もいます。
最澄は、このときすでに桓武天皇から内供奉十禅師の一人に任命されていたのに対し、空海は無名の僧でした。
空海は、唐の都である長安に入ります。
空海と密教
入唐から半年後、空海は唐の国師の
恵果(けいか)を訪ねて、半年間修行します。
当初は20年間の留学としていましたが、
わずか2年で密教を教わり、帰国します。
虚(むな)しく往(い)きて実(み)ちて帰(かえ)る
これは帰国後の空海による言葉で
「行きは不安で虚しい気持であったが、
帰りは満ち足りている」という意味です。
空海と最澄
空海は高雄山寺に入り、
最澄と10年ほど交流を持ちます。
しかし、考え方に違いが生じて
両者は816年頃には対立、決別します。
空海と高野山の金剛峰寺
空海は816年に
朝廷より高野山を賜り、
金剛峰寺(こんごうぶじ)を建立します。
そして東寺(教王国護寺)を真言道場とします。
空海と綜芸種智院
821年には、現在の香川県にある
本最大の農業用ため池である
満濃池(まんのういけ)の改修を指揮します。
翌年には東大寺に真言宗の戒壇を設け
京都には私立の教育施設である
綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を開設します。
空海の最期(まだ生きている?)
空海は835年(承和2年)4月22日に
病気が原因で死亡したとされています。享年62歳。
ちなみに921年には、醍醐天皇から「弘法大師」の尊号が贈られています。
空海の死因は不明です。
- 空海の誕生日:774年6月15日
- 空海の命日:835年4月22日
※空海の最期の年齢は62歳
空海の死因として病死が濃厚ですが
その真実は明らかになっていません。空海の死因は病気だったという記述は
伝真済撰の空海僧都伝の中にあります。死後、「続日本後紀」によると
空海の遺体は火葬されています。
ただし、空海は現在も入定中なので
「死因は無い」という説もあります。つまり、空海は死んでいないということ。
それが本当ならば、死因は無いといえます。※入定(にゅうじょう):真言密教の修行のひとつで、精神を統一し、無我の境地に至るために瞑想すること
「空海はまだ生きている」と噂される理由は
この入定という考え方からきているものです。これこそ「さとりの境地」といえるかもしれませんね。
人間としての空海は病気で死亡したが
人間を超えた空海の魂はまだ生きている。
空海の死因を考察していくなかで
「心とは何か」という問いに対する
重要なヒントに出会える気がします😊
空海の死後、現代にもまつわるもの
ここでは、空海に関する
現在でも耳にしたことのあるものを紹介します。
- 弘法にも筆の誤り
- お遍路
以下で簡単に紹介します。
弘法にも筆の誤り【空海にまつわるもの】
日本の”たとえ”として有名な
「弘法にも筆の誤り」は
弘法大師空海から来ています。
空海は、嵯峨天皇、橘逸勢(はやなり)と共に
”三筆”と呼ばれる筆の名人でした。
そのため、
弘法大師のような書の名人でも
書き損じることがあるということから
その道に長じた人でも時には失敗することがあるというたとえで使われます。
お遍路【空海にまつわるもの】
お遍路(へんろ)とは、
弘法大師空海の足跡をたどって
八十八か所の霊場を巡拝することです。
香川県出身の空海が、青年期に
四国の各地で修業したことが
現在のお遍路にもつながっているのです。