※本能寺の変が起きた日:1582年6月2日(安土桃山時代)
織田信長は天下統一まであともう少しというところで、本能寺の変によって夢が断たれました。
じつは、本能寺の変には
多くの謎が残っています。
この記事では
本能寺の変とは何か?
その内容や謎についてわかりやすく紹介します。
またその他にも、
織田信長と明智光秀との関係や
織田信長の遺体についても解説していきます。
本能寺の変とは何か?
本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、
1582年6月2日(安土桃山時代)に
京都の本能寺に宿泊中だった織田信長が
家臣の明智光秀の謀反(裏切り)にあい
襲撃され、死亡(切腹)した事件です。
約13000人 VS 約100人【本能寺の変の状況】
この時の明智光秀軍は約13000人で
織田信長軍はわずか100人程度だったそうです。
織田信長は少数の手勢で防戦しましたが、
あまりの数の差に対抗することができず
自ら本能寺に火をつけ切腹します。
この一連の出来事は
「本能寺の変」として
日本の歴史に大きくその名を刻みました。
なぜ明智光秀は織田信長を裏切った?【本能寺の変の謎】
日本最後の下克上と呼ばれている
この本能寺の変ですが、
気になることがありませんか?
そうです。
なぜ、明智光秀は織田信長を裏切ったのでしょうか?
実はこの理由(動機)に関しては
はっきりとわかっていません。
明智光秀が織田信長を裏切った理由
明智光秀が織田信長を裏切り
本能寺の変を起こした理由。
その真実についての資料は無く
じつは、明らかになっていません。
そのため当時の様子などから
推測することしかできないのです。
本能寺の変の動機については
以下のように様々な説が飛び交っています。
■明智光秀が裏切った理由の説
- 織田信長の考えについていけなかった
- 織田信長から非情な仕打ちを受けた怨み
- 天下統一を狙った
- いずれ織田信長に追放されてしまう
- 朝廷から命じられた
- 足利義昭からの誘い
- 徳川家康・豊臣秀吉いずれかが黒幕
- キリシタン大名と手を組んだ
織田信長は、家臣に対してとても厳しかったと言われています。
織田信長の家臣として
長い間仕えていた人でさえも
追放されたりしていたようです。
そのため明智光秀は、
厳しい織田信長に対して
怨みを持っていたという説や、
「自分もいずれ追放されてしまうかも。。」
という恐怖心があったという説などもあります。
織田信長と明智光秀の関係
明智光秀は織田信長に仕え、卓越した
才能を発揮して異例の出世をします。
しかし、明智光秀は織田信長の考えに
ついていけなかったのではないかという説があります。
明智光秀が、というよりも
織田信長の考え方が普通ではなく
斬新すぎることが多かったようです。
織田信長の遺体がない!?【本能寺の変の謎】
もう一つ、
本能寺の変において
最大の謎があります。
じつは、、
織田信長の遺体が
見つかっていないのです。
ルイス・フロイスは
次のような記録を残しています。
本能寺に侵入した明智光秀が、織田信長を見つけ背中に矢を放った。
織田信長はその矢を引き抜き
長刀で抵抗したが、やがて左肩を鉄砲で撃たれる。直後に障子の戸を閉めた。
フロイスも、人から聞いた話として述べており、
どのように織田信長が亡くなったのかははっきりしていません。
最後に
この記事では
本能寺の変について
なるべくわかりやすく解説しました。
またその他にも
織田信長と明智光秀の関係や、
織田信長の遺体についても紹介しました。
少しでもお役に立てば嬉しいです。