足利義昭ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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伝説のサムライ
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御所車―最後の将軍・足利義昭

 

足利義昭(あしかがよしあき)
室町時代から安土桃山時代までを生きた
室町幕府の第15代将軍です。

誕生時期:1537年12月
死亡時期:1597年10月9日

 

 

織田信長に支持されて将軍となりますが
のちにその織田信長に追われて室町幕府は滅亡します。

 

この記事では
足利義昭とはどんな人だったのか
足利義昭は何をした人だったのか
わかりやすく簡単に解説していきます。

 

 

足利義昭ってどんな人?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】

足利義昭 (堂々日本人物史―戦国・幕末編)

足利義昭の誕生日

1537年12月
第12代将軍の足利義晴次男として
足利義昭は誕生しました。

嫡男以外の子どもを出家させるという
足利将軍家の習慣に従って、
足利義昭も仏門に入門します。

足利義昭は法名を覚慶(かくけい)として
奈良県の興福寺一乗院に入りました。

 

 

足利義昭、室町幕府第15代将軍へ

1565年、13代将軍になっていた
兄の足利義輝と母親と弟が、
松永久通や三好三人衆らによって暗殺されます。

足利義昭は名を「義秋」と改めて
僧をやめて俗人にかえります(還俗)。

 

義明義昭は幕府再興を志して
勢いのあった織田信長を頼ります。

 

そして共に京都に上洛して
足利義昭は征夷大将軍の任命を受けて、
1568年に15代将軍となります。

 

足利義昭と織田信長

足利義昭と織田信長 (中世武士選書40)

 

足利義昭は将軍になったものの、
天下統一を狙っていた織田信長との
関係が次第に悪化していきます。

1570年、織田信長は
将軍の権力を制限する為に
殿中御掟(でんちゅうおんおきて)という
要望書を義昭に承認させます。

その後さらに
織田信長から足利義昭へ
17条の意見書が出されて両者は対立。

織田信長に不満を持った足利義昭は、
各地の大名に織田信長を討つように働きかけます。

 

 

 

足利義昭と室町幕府の滅亡

室町幕府崩壊 (角川ソフィア文庫)

 

1573年、足利義昭はついに
反信長の旗を揚げて、武田氏や
朝倉氏とむすんで挙兵します。

しかし各地で織田信長は勝利をおさめ、
足利義昭は槇島城の戦いで降伏します。

そうして足利義昭は京都から追放。

200年以上続いた室町幕府は滅亡したのです。

 

 

 

足利義昭、1万石の大名に

1576年、足利義昭は
毛利輝元を頼って鞆(とも)の浦に移ります。

 

 

足利義昭はこの地からも
織田信長討伐を目指して
全国の大名に御内書を発送していましたが、
1582年に本能寺の変が起きて
なんと織田信長が自害。

 

 

足利義昭はこの時も将軍職にありました。

しかし1588年、豊臣政権後に
足利義昭は将軍職を辞めて
豊臣秀吉から山城国(京都府南部)の
1万石を与えられた大名となります。

 

この時に足利義昭は出家もして
名前を昌山道休と改め、
朝廷からは准三后(じゅんさんぐう)の地位を賜ります。

 

足利義昭は、前将軍だった高貴な人として優遇され、余生を送りました。

 

 

足利義昭の最期(死因)

1597年10月9日(慶長2年8月28日)、
足利義昭は大阪で亡くなります。

死因は腫物によるものとされています。享年59歳。

 

最後に

足利義昭と織田信長 (中世武士選書40)

 

この記事では
足利義昭とはどんな人だったのか
足利義昭は何をした人だったのか
わかりやすく簡単に解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

 

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