明智光秀ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】
明智光秀(あけちみつひで)は
戦国時代(室町時代後期)から
安土桃山時代までを生きた武将、大名です。
誕生時期:1528年3月10日
死亡時期:1582年7月2日
織田信長に見出されて重臣となりますが
謀反を起こし、本能寺の変によって
主君を自害に追い込みました。
明智光秀とはどんな人だったのか、
何をした人なのか、などなど
明智光秀について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
目次
明智光秀とは?どんな人?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】
明智光秀の誕生日
明智光秀の生誕日は諸説あります。
明智光秀は、1528年(享禄元年)
もしくは1540年(天文9年)に、
美濃国(現・岐阜県)で誕生したと考えられています。
父は明智光綱と言われていますが、
光国、光隆、頼明などという説もあります。
父の名前も明確に伝わらない程、
身分の低い分家であったようです。
明智光秀、浪人に
明智光秀は、はじめの頃
斉藤道三に仕えますが
道三が滅ぼされた後は浪人となり、
困窮しながらも、色々な場所に転々とする生活を送ります。
仕官先を探して諸国を放浪する中で
鉄砲術や和歌を学び、細川藤孝とも出会います。
その後明智光秀は朝倉義景を頼って、
10年間仕えたと伝えられています。
明智光秀、幕臣となる
1565年に室町幕府13代将軍の
足利義輝が暗殺されます。
足利義輝の弟であった
足利義昭(覚慶)の身を案じて
細川藤孝が義昭を匿って朝倉義景を頼ります。
ここで明智光秀と細川藤孝は再会します。
1566年、明智光秀は足利義昭の幕臣となり、
1568年に足利義昭と織田信長を会見させます。
1569年に三好三人衆が
足利義昭を襲撃しますが、
明智光秀らがこれを撃退。
織田信長から羽柴(豊臣)秀吉と共に
二条御所の土木工事を命じられます。
明智光秀、織田信長の直臣に
1571年、明智光秀は
比叡山焼き討ちで中心的役割を果たし、
織田信長から近江国(現・滋賀県)5万石を与えられます。
これにより
明智光秀は足利義昭と決別し、
織田信長の直臣となったのです。
明智光秀は
「義景は頼りにならないが
信長は頼りがいのある男だ」
と言ったことから、朝倉義景を見限ったと考えられます。
出世直臣での出世
織田信長は
明智光秀の賢いところを気に入ったようで、
織田家家臣の中で新参であった光秀ですが
みるみる出世をしていきます。
1572年、坂本城を築き上げて
翌年に坂本城の城主となります。
また翌年には織田信長討伐の為に
挙兵した足利義昭と戦います。
この槇島城の戦いで足利義昭は敗れ
事実上、室町幕府は滅亡しました。
1575年に明智光秀は惟任(これとう)の姓と、
従五位下日向守に任官して、惟任日向守となります。
明智光秀と本能寺の変
1582年、明智光秀は
羽柴秀吉の毛利討伐の支援を命じられて、早朝に出陣します。
その途中に、明智光秀は重臣たちに
織田信長討伐の意を告げたと言われています。
そして軍を京都に転進させて
織田信長のいる本能寺を急襲して自害に追い込みます。
これが、本能寺の変です。
明智光秀の最期
織田信長の知らせを聞いて
中国地方から引き返してきた秀吉軍に
明智光秀は敗れます。
逃げる途中の伏見小栗栖で
落人狩にあい、明智光秀は亡くなったとされています。
享年54歳。
※明智光秀の死については諸説あり
本当のところは実際わかっていません。
最後に
明智光秀とはどんな人だったのか、
何をした人なのか、などなど
明智光秀について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。