太安万侶(おおのやすまろ)は
奈良時代を生きた文官です。
誕生時期:不明
死亡時期:723年8月
稗田阿礼(ひえだのあれ)が朗読した旧辞を
書き写して『古事記』を完成させた人物です。
太安万侶とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
太安万侶について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
太安万侶とは?どんな人?
- 太安万侶の誕生日
- 太安万侶と正五位上
- 太安万侶と古事記
- その後の太安万侶
- 太安万侶と日本書紀
- 太安万侶の最期
太安万侶の誕生日
太安万侶は、奈良時代に
壬申の乱で功績のあった多本治(おおのほんち)の
子どもとして生まれたそうです。
※太安万侶の具体的な生年月日は不明です。
太安万侶についての記述は、
古事記の序文以外には、後の国史書である
続日本紀(しょくにほんぎ)に少しあるだけで
あまり史料が残っていないようです。
太安万侶と正五位上
太安万侶は、文武天皇在位中の
704年2月16日(慶雲元年正月7日)に
従五位下に叙されます。
その後も711(和銅4)年には
正五位上に叙されています。
これらの記録も、他の多くの貴族たちと
一緒に昇進した様子が書かれており、
太安万侶を特別視していません。
太安万侶と古事記
711年11月3日(和銅4年9月18日)、
元明天皇から稗田阿礼が朗読する
『帝紀』と『旧辞』を筆録して
史書を編纂するように命じられます。
帝紀とは、歴代の天皇や皇室の
系譜などをまとめた日本の歴史書。
帝紀と旧辞は、残念ながら
現在には伝わっていません。
太安万侶は、『帝紀』『旧辞』を
漢文体を交えて筆録していきます。
そして翌年の
712年3月9日(和銅5年正月28日)に
古事記を完成させ、元明天皇に献上します。
古事記の編纂期間は、
およそ4か月というハイペースで
作業がなされたと考えられています。
その後の太安万侶
715年2月18日(霊亀元年正月10日)、
太安万侶はさらに従四位下に昇進します。
716年10月12日(霊亀2年9月23日)には
氏長(うじのおさ)となります。
氏長とは、日本古代の氏の長で、
氏を代表して朝廷に参与する立場の者です。
太安万侶と日本書紀
なお、太安万侶は舎人親王を総裁とする
『日本書紀』の編纂にも参画したと伝わっています。
これは子孫とされる多人長(おおのひとなが)に
よるもので、確証は得られていません。
太安万侶の最期
723年8月11日(養老7年7月7日)、
太安万侶は民部卿従四位下という
立場で亡くなります。
また太安万侶は
1911(明治11)年3月13日に、従三位を贈られています。
太安万侶の墓地
1979年、奈良県立橿原考古学研究所より
奈良県奈良市此瀬町の茶畑から
太安万侶の墓が発見されています。
中には、火葬された骨や真珠が納められていたそうです。
最後に
太安万侶とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
太安万侶について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。