舎人親王ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】
舎人親王(とねりしんのう)とは
飛鳥時代から奈良時代までを生きた皇族です。
誕生時期:676年1月28日
死亡時期:735年12月6日
舎人親王とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
舎人親王について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
目次
舎人親王とは?どんな人?【生涯をざっくりわかりやすく解説】
- 舎人親王の誕生日
- 舎人親王と聖武天皇の関係
- 舎人親王と「日本書紀」
- 藤原不比等が死亡した後の舎人親王
- 舎人親王と「万葉集」
- 舎人親王の最期
舎人親王の誕生日
舎人親王(とねりしんのう)は
676年1月28日(天武天皇5年)に
天武天皇と新田部皇女(にいたべこうじょ)の
皇子(子ども)として誕生します。
天武天皇は、天智天皇の兄で
新田部皇女は天智天皇の娘です。
天武天皇と新田部皇女は
叔父と姪の関係であり、
夫婦の関係でもありました。
舎人親王と聖武天皇の関係
舎人親王は718年に
最も高い品位である一品を授かります。
また知太政官事(ちだじょうかんじ)であった
刑部親王(忍壁皇子)が亡くなった為、
異母弟である新田部親王と共に
皇太子の首皇子(後の聖武天皇)の補佐を行います。
※皇太子=次期天皇候補の第一順位の人。
舎人親王と「日本書紀」
またこの頃に
舎人親王は勅命を受けて
太安万侶と共に「日本書紀」の編集を始めます。
※勅命:天皇からの命令。
そして舎人親王は
718年に日本書紀の編纂事業の完成と、
42歳の厄除けを祈願して”松尾寺”
(現在の奈良県)を建立したそうです。
古い奈良時代から、現代まで
厄年、厄除けが続いています。
他にも「東明寺」(現在の奈良県)も
舎人親王が建てたと言われています。
そしてついに720年に紀30巻、
系図1巻の「日本書紀」が完成します。
藤原不比等が死亡した後の舎人親王
日本書紀が完成した720年、
当時の朝廷で最大の権力者であった
右大臣の藤原不比等が亡くなります。
藤原不比等の死後、舎人親王が
知太政官事(ちだじょうかんじ)に就任し、
太政官を統轄する立場に任命されます。
このことにより舎人親王は
右大臣の長屋王とともに皇親政権を樹立します。
※皇親政治=天皇と皇族中心の政治形態。
舎人親王と「万葉集」
舎人親王は歌人としても知られ、
「万葉集」には舎人親王の短歌が3首入集しています。
他にも、柿本人麻呂歌集に舎人親王に
献上された5首の歌が残されています。
また、賞金をかけて面白い歌を作れと
いった題詞もあり、風流なことが好きだったようです。
舎人親王の最期
舎人親王は
735年12月2日(天平7年11月14日)に
天然痘で亡くなります。享年59歳。
死後、太政大臣を贈られます。
また、のちの758年に
息子の大炊王(おおいおう)が淳仁天皇として
即位した為、父である舎人親王には
「崇道尽敬(すどうじんきょう)皇帝」の称が追号されます。
最後に
舎人親王とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
舎人親王について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。