足利義教(あしかが よしのり)は室町時代を生きた室町幕府第6代将軍です。
- 足利義教の誕生時期:1394年7月
- 足利義教の死亡時期:1441年7月
足利義教とは?どんな人?何をした人?
足利義教の誕生日
足利義教(あしかが よしのり)は
室町時代の1394年7月に
足利義満の子ども(五男)として誕生。
足利義教の父親「足利義満」は、
室町幕府の第3代将軍です。
※室町幕府第3代将軍「足利義満」は
金閣寺を建立した人物としても有名です。
足利義教の母親は、
足利義満の側室(妻)の藤原慶子。
足利義教の兄には
室町幕府4代将軍となった足利義持がいます。
- 初代将軍:足利尊氏
- 2代将軍:足利義詮
- 3代将軍:足利義満(足利義教の父親)
- 4代将軍:足利義持(足利義教の兄)
- 5代将軍:足利義量
- 6代将軍:足利義教
- 7代将軍:足利義勝
- 8代将軍:足利義政
- 9代将軍:足利義尚
- 10代将軍:足利義稙
- 11代将軍:足利義澄
- 12代将軍:足利義晴
- 13代将軍:足利義輝
- 14代将軍:足利義栄
- 15代将軍:足利義昭
足利義教の出家
足利義教は1403年、
青蓮院という寺院に入ります。
1408年に出家の儀式(得度)をして
(義圓)義円と名乗ります。
このように足利義教は僧となっていた為、
将軍の後継者候補からは外れていました。
足利義教と籤引き将軍
しかし1425年に
第5代将軍の足利義量が急死します。
兄であった足利義持も病で危篤となった為、
次期将軍を決めなければなりませんでした。
そこで管領の畠山満家をはじめとした
室町幕府の中枢たちは会議をします。
その結果、石清水八幡宮で
籤(くじ)引きを行い、足利義持の
弟4人から次期将軍を選ぶことに。
1428年1月17日、石清水八幡宮で
籤が引かれて足利義教が後継者となります。
このため、足利義教は
籤引き将軍とも呼ばれています。
ただしこの籤引き、実は足利義教と決まっていて
体裁を整えるのが狙いだったともいわれています。
足利義宣(足利義教)と征夷大将軍
足利義教は、
僧から俗人に戻る還俗(げんぞく)して
足利義宣(よしのぶ)と名乗ります。
しかし義宣という名が、世間の人の目を
避けて隠れる「世忍ぶ」に通じて
縁起がよくないという理由から1429年、
「足利義教」と改名して征夷大将軍となります。
足利義教の政治について【専制政治】
兄の足利義持は、父の足利義満を嫌って、
父の政治と対照的な政治を行っています。
しかし足利義教は、
父「足利義満」の政策を復活させる方向。
室町幕府の権威復興と将軍親政の
復活を目的として動いたそうです。
つまり足利義教の政治は、
管領などの特定の身分や家柄の者たちが
権力を振るえないようにするものでした。
そして将軍に服従しない者を
すべておさえつけようとしたため、
鎌倉府との関係が悪化します。
※鎌倉府(かまくらふ):室町幕府が関東10か国を統治するために設置した機関
足利義教と永享の乱
足利義教の兄弟であった足利持氏は、
自身が将軍に就任できると信じていたため、
足利義教を恨み、両者は対立していたそうです。
1438年、鎌倉公方方の足利持氏(もちうじ)と
関東管領の上杉憲実(のりざね)が対立します。
このことをきっかけに、
足利義教は上杉憲実を支援する名目で
関東へ討伐軍を送って足利持氏を討ちます。
足利義教の恐怖政治
さらに足利義教は専制政治を強行。
※専制政治:強大な政治権力を持つ支配者が、独断的に行う政治体制
権力者である足利義教は1440年に
有力守護の一色義貫(いっしき よしつら)と
土岐持頼(とき もちより)を処刑しています。
足利義教と赤松満祐の陰謀
足利義教の恐怖政治により
政治に対する不満や不安が高まります。
処刑されるという噂が流れた
有力守護の赤松満祐(あかまつみつすけ)は、
処罰を恐れて足利義教殺害を計画。
↓
足利義教の最期
足利義教が赤松邸で能を鑑賞しているとき、
庭で馬が大暴れしたので、足利義教は
「何事であるか」と怒鳴ったそうです。
その怒鳴り声が、
足利義教の最期の言葉に。
怒鳴った直後に障子が放たれて
甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入し、
赤松氏の武士が足利義教の首をはねたそうです。
この事件は、嘉吉の乱と呼ばれています。
※別名「嘉吉の変(かきつのへん)」
嘉吉の変が起きた日。
1441年7月12日(嘉吉元年6月24日)に
足利義教は亡くなったとされています。享年48歳。