親鸞聖人(しんらんしょうにん)とは
平安時代後期から鎌倉時代までを生きた僧です。
浄土真宗の開祖となり、
仏教界に大きな影響を与えました。
誕生時期:1173年5月21日
死亡時期:1263年1月16日
この記事では
親鸞聖人とはどんな人だったのか
生涯や像、命日などについても
なるべく簡単な言葉を使いながら
わかりやすく紹介していきます。
親鸞聖人とは?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】
親鸞聖人の誕生日
親鸞聖人(しんらんしょうにん)は
1173年5月21日(承安3年4月1日)に
京都の吉野の里で誕生します。
- 親鸞聖人の父親:日野有範(ひのありのり)
- 親鸞聖人の母親:吉光女(きっこうにょ)
親鸞聖人の子ども時代
親鸞聖人は9歳で出家して
範宴(はんねん)と名乗ります。
比叡山で約20年間、勉強をし続け
厳しい修行などにも耐え続けたそうです。
これは豆知識ですが
親鸞聖人はずっと聖徳太子を尊敬していたそうです。
親鸞聖人は29歳になったころ
20年いた比叡山にさよならを告げ
ついに、新しい道へ進むことに。
親鸞聖人と聖徳太子
時期はだいたい1200年頃、
鎌倉時代が始まったばかりの頃のこと。
どこに進めばいいのか?
人生に迷った親鸞聖人がそこにいました。
新たな道を探す親鸞聖人は
尊敬する聖徳太子を頼ります。
もちろん、聖徳太子は
飛鳥時代の人物なので
親鸞聖人とは時代が違います。
どういうことかというと
京都の六角堂(ろっかくどう)に
100日間の参籠(さんろう)をすることで
聖徳太子の声を心で聞こうとしたそうです。
※参籠(さんろう):神社や寺院などに、ある期間こもること。
親鸞聖人、法然の弟子となる
今後の歩むべき道に悩み、
寺にこもっていた親鸞聖人は
法然聖人の専修念仏の教えを説かれます。
法然聖人の弟子となった親鸞聖人は
多くの人々に救いの道をひらきましたが、
それまでの仏教教団からの反感を買うことに。
そして、教団から朝廷への
念仏弾圧の訴えが起こり、
法然聖人は土佐(現・高知県)へ、
親鸞聖人は越後(現・新潟県)へ流罪となります。
※流罪(るざい):罪人を遠くの場所へ送る追放刑
親鸞聖人、流罪
越後への流罪に当たって
親鸞聖人は僧籍をはく奪され
「藤井善信(ふじいよしざね)」の俗名を名乗ります。
流罪先の越後で、
親鸞聖人は恵信尼(えしんに)と結婚し、
のちに4男3女の子をもうけます。
※恵信尼(えしんに):三善為教の娘
親鸞聖人は生涯、
非僧非俗の立場を貫きました。
「教行信証」を著す
流罪を許された親鸞聖人は
その後、関東へ移住します。
関東の地であらゆる人々に
本願念仏の教えを広めて
1224年頃、浄土真宗の教えを述べた
「教行信証(きょうぎょうしんにょう)」を著しました。
その後、親鸞聖人は、
京へ戻り著作活動に励みます。
親鸞聖人の最期(命日)
1263年1月16日(弘長2年11月28日)、
親鸞聖人は亡くなります。享年90歳。
三条富小路(とみのこうじ)にある
尋有(じんう)の善法坊(ぜんぽうぼう)で
親鸞聖人は最期を迎えたとされています。
- 三条富小路の場所:京都府
- 尋有(じんう):親鸞聖人の弟の名前
旧暦11月28日。
この日は浄土真宗の開祖である
親鸞聖人の命日とされています。
そして毎年11月28日の前後には
浄土真宗の信仰者が最も大切にする
親鸞に対する報恩講(ほうおんこう)という
仏事が行われています。
集いを開いて仏法を聴いて
自らの信仰を学びなおしたり、
お徳に感謝したりする日だとされています。
親鸞聖人の像について
親鸞聖人の像は、全国の
ゆかりある地に存在しています。
新潟県胎内市には、40mもある
大きな親鸞聖人の像が立っています。
流罪で越後(新潟県)に流された親鸞聖人にとって、
ゆかりのある地であることは間違いないですね。
他にも、長野県にある善光寺の境内には
松を手に持って奉納する親鸞聖人の銅像が建てられています。
この信州善光寺の親鸞聖人像は
故事(昔にあった出来事)に基づいて作られています。
親鸞聖人は信州善光寺にきたとき
如来(仏像)にむけて松の枝を捧げたそうです。
浄土真宗の宗祖、親鸞聖人が善光寺に参詣の折、善光寺如来様に松の枝を捧げたという故事に基づいて作られました。初代の銅像は太平洋戦争に伴う金属供出で失われましたが、戦後に復興されました。
最後に
この記事では
親鸞聖人とはどんな人だったのか
生涯や像、命日などについても
なるべく簡単な言葉でわかりやすく紹介しました。
この記事が少しでも
あなたのお役にたてばうれしいです。